Airbnbの創業から2017年頃までのストーリー
あるとき、わたしはチェスキーに、理想を追いかけすぎると言われたことはないかと聞いてみた。すると、「トーマス・フリードマンのすごくいい言葉がある」と話しはじめた。トーマス・フリードマンはニューヨーク・タイムズ紙の有名コラムニストだ。「悲観主義者はだいたい正しい。だが世界を変えるのは楽観主義者だ」
創業者達
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Brian Chesky
- 1981年生
- CEO
チェスキーはニューヨーク州北部の出身で、両親はどちらも社会福祉士だった。子供たちが情熱と趣味を自由に追いかけられるように、必死に働いてきた。母親のデブは今、レンセラー工科大学の資金調達に励み、ニューヨーク州の職員を 40 年間務め上げた父親のボブは、2015年に引退した。
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Joe Gebbia
- 1981年生
- デザイナー
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Nathan Blecharczy
- 1983年生
- CTO
電気技師の父を持つブレチャージクは 12 歳のとき、父親の本棚にあった本を読んでコーディングを学んだ。 14 歳の頃には熱に浮かされたようにコーディングに打ち込むようになり、オンライン経由で仕事を請け負いはじめた。高校を卒業するころには、マーケティングソフトウェアの開発と販売で100万ドル近くを稼いでいた。
創業のきっかけ & Cofounderとの出会い
サンフランシスコに住んでいたふたりのデザイン学校卒業生が、失業して家賃の支払いに困っていた。2007年 10 月、地元のホテルがデザイン博で満杯になるタイミングを狙って、自宅の余ったスペースにエアマットを敷いて貸し出すことにした。
- チェスキーとゲビアは美大の同級生
両親を失望させたくなかったチェスキーは、大学の途中で専攻をイラストから工業デザインに変えた。そのほうがメシの種になると思ったからだ。そんなわけで、チェスキーとゲビアは別々の道に進み、一時的にコン・エアーのプロジェクトで再会したものの、チェスキーは工業デザイナーとしてロサンゼルスで新生活に踏み出した。
- チェスキーはデザイン会社に就職するも退屈な生活を送っていた
ロサンゼルスに着いたチェスキーは、大学時代の友達と一緒に住み、工業デザイン会社の3DIDで働きはじめた。
チェスキーは次のジョニー・アイブやイヴ・ベアールを夢見ていた。アップルやジョウボーンをつくり変えた有名デザイナーに憧れていたのだ。 それなのに、仕事はつまらない作業の繰り返しだった。
仕事選びを間違ったと思った。
- ゲビアも就職しつつ、自分の会社を立ち上げていた
ゲビアはRISDを卒業し、サンフランシスコに引っ越して大手出版社のクロニクル・ブックスでグラフィックデザイナーとして働きはじめた。
ゲビアは自分で会社もはじめ、大学時代にデザインしたシートクッションを商品化しようとしていた。
そのクッションはRISDの権威ある賞を受賞し、大学が製造費用を出して、卒業生全員にプレゼントすることになった。ゲビアはあわてて製造会社と金型メーカーを探し、卒業式に間に合うよう4週間で800個のクッションをつくった。その翌日、ゲビアは会社を立ち上げた
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ゲビアとチェスキーはよく連絡を取り合っていた
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会話の終わりにはいつも、ゲビアがチェスキーにサンフランシスコに引っ越して一緒に会社を立ち上げようと誘っていたが、チェスキーが渋っていた
会話の終わりにはいつも、ゲビアがチェスキーにサンフランシスコに引っ越して一緒に会社を立ち上げようと誘っていた。でも、チェスキーは乗り気になれなかった。会社を辞めて引っ越せば健康保険を失ってしまう。
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ゲビアに触発されて、チェスキーはサンフランシスコで仕事を探しはじめた
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転職活動をするも受からず
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チェスキーとゲビアは、どんな会社を立ち上げようかと真剣に考えはじめた。この頃、チェスキーはもう仕事を辞めていた。
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ロサンゼルスの生活にさよならして、彼女と別れ、ルームメイトに引っ越しを告げ、所持品のほとんどを置いてアパートを出て、サンフランシスコのゲビアのアパートに移住
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ゲビアのアパートの家賃が上がることになり、お金を稼ぐために民泊をやろうという話になる
家賃の値上げは前から知っていた。それに、もうひとつの寝室の分もふたりで支払わなければならないこともわかっていた。だからチェスキーがロスにいるときから、どうやって小遣い稼ぎをしようかとふたりであれこれ頭をひねっていた。そのひとつが、10月末にサンフランシスコで開かれる予定の、国際デザイン会議にまつわる商売だ。数千人のデザイナーがサンフランシスコにやってくる。ホテルはいっぱいで値段が釣り上がることはわかっていた。 そこで、会議に合わせてアパートの空き部屋で民宿をやってみようということになった。
サービス名は「エアベッド&ブレックファスト」だ。できあがったサイトには、大げさな宣伝文句を並べた。(「国際デザイン会議で新しい人脈をつくろう!」)。そして、サービスの説明と、一晩 80 ドルで泊まれるエアベッドを3つ掲載した(屋上バルコニー、デザインライブラリー、おしゃれなポスターと3Dタイポグラフィも、アメニティに入っていた)。「クレイグスリストとかカウチサーフィンみたいけど、それよりオシャレなサービス」という「推薦文」まであった。
このアイデアがものすごいビジネスになるとは思っていなかった。ただ、なんだかすごく変な感じがした。家賃の足しになればと思いついたことが実際にうまくいって、本物のビッグアイデアを考えるまでのちょっとした時間稼ぎになったと思っていた。
- ブレチャージクが開発担当としてJoin
ゲビアの以前のルームメイトだったネイサン・ブレチャージクを引き入れた。ボストン出身の優秀なエンジニアのブレチャージクは、ちょうど仕事と仕事の間だった。電気技師の父を持つブレチャージクは 12 歳のとき、父親の本棚にあった本を読んでコーディングを学んだ。 14 歳の頃には熱に浮かされたようにコーディングに打ち込むようになり、オンライン経由で仕事を請け負いはじめた。高校を卒業するころには、マーケティングソフトウェアの開発と販売で100万ドル近くを稼いでいた。その金でハーバード大学でコンピュータサイエンスを学んだが、2007年のほとんどを潰れそうな教育関係のスタートアップで働いて、辞めようと思っていた。
- ルームメイトのマッチングサービスをやろうとしたが、既に存在して心が折れる
3人は方向性がいっこうに定まらないまま、延々とブレインストームを続けた。あるとき、クレイグスリストとフェイスブックを掛け合わせたような、ルームメイトのマッチングサイトをやろうと決めた。「エアベッド&ブレックファストなんて誰もやりたがらないけど、ルームメイトは必要だと思ったんだ」とチェスキーは言う。4週間ほどそのアイデアの設計と改良に費やしたあとで、ブラウザにルームメイトドットコムと打ち込んでみると、そのビジネスとウェブサイトがすでにあったことがわかって気持ちが折れた。3人はまたいちからやり直すことにした。
- 結局、民泊に戻って来る
3人ともエアベッド&ブレックファストの宣伝に慣れてきた。そして、考えはじめた。 もしかして、これが本命?
休暇から戻ったチェスキーとゲビアは早速、エアベッド&ブレックファストを立ち上げることにした。
まずブレチャージクを説得しなければならない。ブレチャージクがいなければ、どうにもならないことはわかっていた。電話をかけてすごくいいアイデアがあると言い、夕食に誘って売り込んだ。ブレチャージクは気乗りしなかった。アイデアはいいと思ったし、ゲビアと住んでいた頃にお互いに副業を助けあって夜なべしたり週末に働いたりしていたので、自分と同じくらい勤勉だということもわかっていた。3人ならいいチームになると思ったが、デザイナー視点の壮大なビジョンを聞いているうちに、それがものすごい作業量になることがわかった。しかも、そのほとんどを自分ひとりでやらなければならない。3人の中でエンジニアはブレチャージクだけで、サウスバイに間に合わせるにはあと数週間しかない。
この頃には、チェスキーがCEOになることをみんなで決めていた。「なにか話し合ったとかじゃなくて。僕たちの誰かがCEOの肩書を受け持たないといけなくなったから」とチェスキーは言う。3人の能力はそれぞれにまったく違っている。その中で、チェスキーに生まれつきのリーダー的な資質があるのは明らかだった。「ジョーとネイトが僕よりずっと経験があるのはわかってた。ふたりはスタートアップで働いたことがあるけど、僕はない。だから、自分が役に立てることをがんばろうと思ってたし、それが会社の顔になるってことだった」チェスキーはそう振り返る)。
アイデア自体は新しくはなかった
エアビーアンドビーの元になったアイデアは新しいものではない。最悪のアイデアだと頭ごなしに説教しなかったのは、チェスキーの祖父だけだ。チェスキーの話を聞いた祖父は、ただうなずいてこう言った。「あぁ、もちろん。昔はみんなそうしてたからな」 実際にそうだった。間借り人も、下宿人も、住み込みの学生も、エアビーアンドビーができるはるか以前に、またはインターネットよりずっと前に、なんらかの「ホームシェア」をしていたわけだ。歴史上の有名人にも、その時代のエアビーアンドビーを利用していた人は多い。
Airbnbの特徴
- 使いやすいプラットフォーム
では、なにが新しいのだろう? エアビーアンドビーの功績は、障壁を取り払い、簡単で使いやすく親しみの持てるプラットフォームをつくり、誰もが参加できるようにしたことだ。
- 都市型の民泊
ほとんど話題にならないが、エアビーアンドビーの一番の特徴は、都市型という点だ。それまで、ほとんどのホームレンタル会社は、別荘か、昔ながらの休暇地やリゾート地の物件しか扱っていなかった。エアビーアンドビーでもツリーハウスやボートハウスが話題になるが、掲載物件のほとんどはワンルームか、寝室がひとつからふたつのアパートだ。多くの旅行者はそこに惹かれるし、ホテルにとってはそれが脅威になる。エアビーアンドビーは普通の人を引き寄せた。ワンルームアパートを借りている人でも、その空間でお金を稼ぐことができる。
最初は非営利でやろうと考えていた
ごく初期の頃、チェスキーはサービスを無料にすべきだと真剣に思っていた。「会社をはじめるっていうことがしっくりこなかったんだ」と言う。エアベッド&ブレックファストをムーブメントにしたかった。チェスキーはなんでもタダでシェアできる世界を無邪気に思い描いていた。「僕はめちゃくちゃリベラルだから、初めはカウチサーフィンみたいな無料のサイトにすべきじゃないかって思ってた。おカネなんてとらないってね」。ゲビアとブレチャージクがダメだとチェスキーを説得し、チェスキーも最後に折れた。「『あーやっぱそうだよな』って感じだった。おカネにしなくちゃって。ビジネスモデルがないとやっぱりダメだと思った」
何度もローンチ
- 3回ローンチしても無風と微風で儲からない
3人はサイトを公開した。3度目の正直だ。
人はサイトの体裁を整え、人気カンファレンス向けの宿泊サービスというふれこみで(「ついに高級ホテルに替わるサービスが誕生」という宣伝文句で)、テクノロジーブログに広告を出した。だが反応はなし。「あんまり注目されなかったね」とブレチャージクは言う。あまり注目されなかったどころじゃない。お金を払ってくれたのはふたりだけだった。そのひとりはチェスキーだ。
チェスキーはほかの起業家にずっとこの作戦を勧めている。「ローンチして誰も気づいてくれなかったら、何度でもローンチすればいい。ローンチしたら、そのたびに記事にしてくれるから」
シリアルを売って窮地を脱する
- 3人共借金して生活するまで追い込まれる
この時点で、彼らはもう野球カードのバインダーがいっぱいになるくらいクレジッドカードをつくりまくり、ひとり2万ドルの借金があった。
- 2008年の民主党大会でシリアルを売って食いつなぐ
1万個つくって一箱2ドルで売れば、会社は生き延びられる。「エンジェル」から金をもらうのと同じじゃないかとチェスキーは自分を納得させた。
その箱を一つひとつ組み立てて、糊で封印する。「バカでかい折り紙を折ってるみたいだった」。チェスキーは手をやけどした。マーク・ザッカーバーグは糊付け作業なんてやってないし、手を火傷しながらシリアルの箱を組み立たりしてないよな、と心の中でつぶやいた。俺たち、ダメじゃね?
シリアルで2万ドルから3万ドルは儲けたのに、本業の売上はわずか5000ドルだった。
YCに応募して合格
面接は失敗だった。3人がアイデアを説明すると、グレアムが開口一番に聞いた。「こんなことやるヤツが実際にいるの? なんで? おかしくない?」 チェスキーたちが市場や顧客に詳しいことは伝わったが、アイデアそのものは問題外だと思われたようだった(このときのアイデアは、ホストが家にいることが前提だったとグレアムたちは言う。家や部屋をまるまる貸し出す形式は、まだ思いついていなかった)。面接が終わって帰ろうとしているときに、ゲビアがカバンからシリアルの箱を取り出した。ブレチャージクがやめろと言ったのに、こっそり持ってきていたのだ。ゲビアは、パートナーたちと話しているグレアムのところに近づいて行き、シリアルを手渡した。グレアムはぎこちなくありがとうと言った。おみやげにしては妙だと思った。いえ、おみやげじゃなくて、コレ自分たちでつくって売ったんです。それで会社の資金にしたんです。ゲビアたちはオバマ・オーの制作秘話を披露した。グレアムは座って聞いていた。 「へぇー」。少し間があった。「君たちゴキブリみたいだな。絶対に死なない」
のちにグレアムは、例のシリアルが決め手だったと言っていた。 「4ドルのシリアルを 40 ドルで売れるなら、他人のエアベッドで寝るようにみんなを説得できるだろうと思ったんだ。たぶんね」
PGからとにかく厚かましく学ぶ
一番はじめに、グレアムは2つの重要な教えを授けてくれた。まず、グレアムはチェスキーたちに利用者数を聞いた。3人は、それほど多くないんです、たった100人くらいですと答えた。心配するな、とグレアムは言った。 「なんとなく好きになってくれる」100万人より、「熱烈に愛してくれる」100人のファンのほうがはるかにいい。それは、規模と成長がなによりも優先されるシリコンバレーの常識に真っ向から反する教えだが、3人にはその言葉が腹に落ちたし、希望になった。
次に聞いたのが利用者のことだ。ユーザーはどこにいるんだ? 場所は? ほとんどがニューヨーク市です。グレアムは一瞬黙って、ニューヨーク市にいる、と繰り返した。 「そうか、君たちはマウンテンビューにいて、ユーザーはニューヨークにいるんだな?」3人は顔を見合わせ、またグレアムを見た。「はぁ」 「こんなところでなにぐずぐずしてるんだ?」グレアムは言った。「ニューヨークに行け! ユーザーのところに」
3人はYコンビネーターの模範学生だった。チェスキーとゲビアは毎週ニューヨークに飛び、学べることをすべて学んでいた。ニューヨークから飛んで帰って荷物を引きずったまま、早めにYコンビネーターのイベントに到着することもあった。3人はしょっちゅうグレアムに会いたがった。「毎週グレアムを捕まえて個人授業の時間にしていた。個人授業の時間なんてなくてもね。誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで居残っていた。厚顔無恥で、好奇心旺盛だったんだ」とチェスキーは言う。
グレアムはこれまでYコンビネーターに参加する数百というスタートアップを見てきて、面白いパターンに気がついた。一番熱心な人間が、誰よりも成功するということだ。「いかにも優秀なタイプが成功するわけじゃない。成功するのはたいてい、ダメなやつらだ」
スケールしないことをする
ユーザーとの対話から多くを学んだが、ただ彼らの居間におじゃましたり、自分たちのサイトを使う様子を観察したりするだけでも、はるかに多くのことが学べた。チェスキーとゲビアはすぐに2つの弱点を発見した。ひとつは宿泊料をどのくらいにしたらいいかわからない人が多かったこと。もうひとつは写真だ。写真は大きな問題だった。みんな写真が下手で、2009年当時はアップロードの仕方がわからない人も多かった。そのために、実際は素敵な部屋でも、写真では暗くて薄汚く見えた。そこで、ホストの部屋にプロの写真家を無料で送り込むことにした。だが、写真家を雇うお金がなかったので、チェスキーが美大の友達からカメラを借りて自分で写真を撮った。前日にCEOとして出向いたホストの家に、翌日写真家として訪問することもしょっちゅうだった。
チェスキー自身が決済システムになり、バックパックの中から小切手帳を取り出して、訪問したホストに紙の小切手を書いて渡していた。クレームの電話はすべてゲビアが自分の携帯で取っていた。ふたりは、家を一軒一軒訪問してサイトに登録してもらい、ミートアップを組織し、誰にでも近寄って自分たちのサービスを紹介し、アパートを使って小遣い稼ぎができると説明していた。受け取ったフィードバックを毎週持ち帰ってブレチャージクに伝え、サイトを改善し調整していった。
こうした経験から、自分たちがこのビジネスを狭い目で見ていたことにも気がついた。それまでは、本物のベッドを貸し出せる場合でも、エアマットを使うことを条件にしていた(本物のベッドを貸したかったホストに、ベッドの上にエアマットを置けば大丈夫だとチェスキーは答えたことがあった)。 あるホストはこれからツアーに出るミュージシャンで、アパートを全部貸してもいいかと聞いたのに、チェスキーとゲビアはダメだと言った。ホストがいなかったら、誰が朝食をつくるんだ? そのミュージシャンとは、バリー・マニロウのドラマーのデビッド・ローゼンブラットで、エアベッド&ブレックファストのビジネスを永遠に変えたのが彼だった。ローゼンブラッドの頼みがきっかけで、はるかに大きな可能性が開けた。朝食は出さなくてもいいことにして、部屋をまるまる貸し出すこともオプションに加えた(ローゼンブラットはツアー先のステージ裏からチェスキーに電話をかけてきて、自分のアカウントにログインできないと文句を言っていた。その後ろで、「バリー! バリー!」と声援が聞こえた[ 15])。グレアムもまた初期のモデルの限界に気づき、この頃にエアベッドの条件を外して潜在市場を広げるべきだと指摘していた。彼らは「エアバンブ(Airbanb)」のドメインを買ったが、それでは「エアバンド」みたいだということになり、その代わりに「エアビーアンドビー(Airbnb)」を選んだ。
セコイアから別荘貸しマーケットと捉えられて投資を受ける
マカドゥーは話しかけ、貸し別荘業界が400億ドル市場だと知っているかと聞いた。チェスキーは、自分たちの会社が、「別荘」の「貸し出し」と関係するとは思ってもみなかった。
「あれが決定打だった」とチェスキーは振り返る。「スタートアップの一番の敵は己の自信と決意なんだ。長い間、僕たちは最悪だと言われ続けた。そのあとで、最高だって言われたんだ」この先に痛みと困難が待ち受けているのはわかっていたが、少なくともこの大切な時期に自分たちが正しいことが証明された。チャンスを与えられたのだ(セコイアにとっても命運を分ける投資だった。あの 58 万5000ドルは、現時点でおよそ 45 億ドルと推定される)。
最初はグロースハックで伸ばす
ホストが電子メールに埋め込まれたボタンをクリックすれば、エアビーアンドビーの物件をクレイグスリストで宣伝できるツールをブレチャージクは開発した。
そのうちにグロースハックもあまり意味がなくなってきた。本物の勢いがついてきたからだ。ただし、「タダで成長できる方法」を見出す力はみんなが思っているよりはるかに重要だとブレチャージクは言う。もしそれをやっていなかったら、あれほどの爆発的な勢いはつかなかった。
Airbnbが急速に伸びた要因
エアビーアンドビーが人気になった理由は、いくつかの要素の組み合わせだ。大きいのは価格。エアビーアンドビーは不況のど真ん中で生まれた。掲載物件はピンキリとはいえ、普通のホテルよりはるかに安い。ニューヨーク市で一泊100ドルもかけずに素泊まりの部屋を見つけることができるのは、エアビーアンドビーならではの破壊的な特徴だ。 ほかの理由はそれほどはっきりとは目に見えないが、おそらくもっと大切かもしれない。それは、金太郎あめのような大規模ホテルチェーンへの不満に応えたことだ。「 20 年前の旅行者の望みは、清潔で驚きのない部屋だった」マリオット・インターナショナルのアーネ・ソレンセンCEOは、2016年初めにカンファレンスの壇上でそう語った。「それが私たちのブランド戦略につながった。よし、それならすべて同じ部屋にしよう、とね」。今の旅行者が求めるものは違う、とソレンセンは言う。「エジプトのカイロで目覚めたら、カイロにいる実感がほしい。アメリカの田舎と同じ部屋で目覚めたくないからね」
- 景気が悪かった
金融危機の直後に生まれたこのサービスは、普通の人たちに、自分の部屋を貸し出してお金を稼ぐ道を提供し、これまでよりはるかに手ごろに旅行できる道を開いた。
- 画一的ではない旅行体験を求める人が増えた
お手ごろ価格と豊富な部屋ぞろえを超えたなにかだった。それは、いつもと違う特別な体験だ。その体験が完璧でないからこそ、画一的なホテルにはない、こじんまりとした「手づくり」感のある旅行がしたいという望みが満たされる。また、お決まりの観光地以外のさまざまな場所を訪れて、その地域をより身近に体験することもできる。
誰かの家に泊まるという新しい体験は、もうひとつの大きなニーズに応えていた。それは、人とのつながりだ。エアビーアンドビーで誰かの家に泊まったり、ホストとして誰かを迎えたりすることは、他人と親密になるということだ。
泊まる部屋そのものも独特だが、ホテルや観光地以外の、普通の観光客が見ることのできない路地裏や街はずれに泊まれることもまた、エアビーアンドビーの破壊的な特徴だ。
危機の時の意思決定
この経験からチェスキーが学んだのは、コンセンサスで決定するなということだ。「危機のときコンセンサスで決めると、中途半端な決定になる。それはたいてい最悪の決断だ。危機のときには、右か左かに決めるべきなんだ」 それ以来、考え方をひとつ上のレベルに持っていくことを、「ゼロをひとつ加える」と呼ぶようになった。のちに、この経験は、エアビーアンドビーの「 再生」だったとチェスキーは語っていた。
新しいことに挑戦し、永遠の拡張期でいること
グーグル、アップル、アマゾンといった巨大で永続的なテクノロジー企業を研究したチェスキーは、ふたつの結論を出していた。
テクノロジー企業の生き残りは新分野に乗り入れる意欲があるかどうかにかかっている。そして、CEOは自分を律して既存事業よりも新分野への乗り入れを優先させなければならないし、新しいプロジェクトを自分のものとして個人的に受け止めなければならない。
テスラのイーロン・マスクにもアドバイスをもらった。マスクは、会社が大きくなりすぎて「管理期」に入らないようにと警告してくれた。「創業期」と「拡大期」を経て、 10 パーセントから 20 パーセントの成長に落ち着くと、それは事業が成熟してきたしるしだと言う。「エアビーアンドビーは絶対に管理期に入らない。これからもずっと拡大期だ。いつも創業と拡大を繰り返すんだ。 11 月にたくさんの新サービスをローンチするのも、そのためだ。そのあとも、どんどんローンチしていく」
創業者たちの成長
その中でチェスキーとブレチャージクとゲビアの3人は珍しく、9年目の今も力を合わせて全員で宇宙船の舵を握っている。これほど長くまとまっている創業トリオは、このところのテクノロジーブームでも、ほかのテクノロジー会社には見られない。
もちろん若いCEOはみんなアドバイスを求めるものだが、チェスキーの場合はしつこく、こまごまと、うんざりするほどいつまでも聞いていた。チェスキー自身はその学習方法を「情報源に行くこと」と呼んでいる。あるトピックについて 10 人に話を聞き、すべてのアドバイスをまとめるのではなく、その半分の時間で一番確かな情報源を探り、誰よりもそのことに詳しい人をひとり見つけて、その人だけに話を聞く。「正しい情報源を見つけられたら、早送りで学習できる」とチェスキーは言う。
「失業中のデザイナーだった頃も、いろんな人に会いに行った。臆面もなくね」。実際、失業中のデザイナーだったからこそ、こうした大物に会ったことが役に立ったと言う。「僕にはなにもお返しするものがなかった。少なくとも自分より数年先を行っている人を選ぶのがコツなんだ」。チェスキーと同じような人脈を持つCEOは多いが、チェスキーほど活用できていないとセコイアのアルフレッド・リンは言う。
「情報源」は生きている人でなくてもいい。チェスキーはウォルト・ディズニーとスティーブ・ジョブズの伝記から、最も価値のある教訓を学んだ。
チェスキーはただの読書好きという 範疇 をはるかに超えている。
チェスキーを知る人たちはみな、彼がものすごい好奇心の持ち主だと口をそろえる。常に新しいことを吸収し続けていないと気がすまない性分らしい。「チェスキーは学習マシーンだ。それが彼の一番の強みだ」とリード・ホフマンは言う。「成功する起業家はみんなそうだ。『永遠の学習者』なんだ。彼はその究極のお手本だね」。まだエアビーアンドビーがはじまったばかりの頃、サンフランシスコのステージ上でホフマンはチェスキーと対談したことがある。ステージから降りる階段に足をかけたところで、チェスキーがホフマンに改善点を教えてくれと尋ねてきた。「対談が終わったばかりなのに、開口一番そう聞いてきたんだ」とホフマンは言う。
チェスキーの原動力は普通の創業者とは違うとポール・グレアムは言う。お金、権力、成功といったものではない。「彼はブライアン・チェスキーのために働いていない。本当にそうなんだ。僕はこれまで多くの創業者を見てきた。何千人とね。だから、ただ成功したい人間か、信じるもののある人間かわかる。チェスキーにとってエアビーアンドビーはカネや名声をはるかに超えた存在だ」。だからこそ、チェスキーはどんな会社のCEOにもなれるわけではないとグレアムは言う。「ブライアンは自分が信じることを人にやらせる力のあるリーダーだ。だから、どんな会社でもいいってわけじゃない」 ウォレン・バフェットも同じことを感じていた。「この会社が好きで好きでたまらないんだな。一銭ももらえなくてもやるだろうね」
チェスキーはリーダーとして自然に成長できたかもしれないが、ゲビアにはそれが難しかった。ゲビアの強みは、少人数のチームの中で大胆で枠にはまらないアイデアを生み出すことで、大組織の巨大な軍団を管理することではなかった。だが、それが彼の仕事になっていた。2013年から2014年にかけてエアビーアンドビーはますます拡大し、その成長と拡大ペースは手に負えなくなっていた。「あれもこれも変わっていた。すべてに目配りできたと思っても、次の瞬間にもうできなくなっていた」ゲビアの不安は高まっていく。「チームがどんどん大きくなっていった。数字も膨れ上がっていった。自分の周りのなにもかもが大きくなっていく。じゃあ、自分はどう成長すればいいんだ?」ゲビアにはそれができなかった。「正直に言うよ。壁にぶち当たったんだ」
完璧主義のせいで単純な判断にも長い時間がかかり、ゲビアのところで物事が止まってしまう。また、ゲビア自身が仕事中毒で、エアビーアンドビーより前に2度も起業できたのもその勤勉さゆえだった。だがそれが、部下に大きなプレッシャーになっていたことにゲビアは気づいていなかった。360度評価でわかったのは、ゲビアのチームメンバーは何週間も家族や恋人と夕食を共にできず、ジムに行くことさえできていないということだった。会社をもう辞めようと思っていた人もいた。「僕の完璧志向のせいで、みんなが燃え尽きそうになっていた」とゲビアは言う。
お金をかけずに成長できるさまざまな方法を編み出したのは、ブレチャージクだった。初期のクレイグスリストでのグロースハックも、グーグルアドワーズとのインターフェースを可能にする特殊技術も、ブレチャージクが考え出した。
より自分を表に出すようにもなった。「性格がもともと内向的なんだ」。しかし、社員は3人の創業者それぞれの意見を聞きたいと望んでいることが、フィードバックからわかった。「リーダーとして自分をもっと表に出すことを学ばないといけなかった」
創業者3人の違いには、みんなが気づいている。「社内の誰に聞いても、僕たちの性格がバラバラだって言うだろうね」とゲビア。