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95/ 虚構 堀江と私とライブドア

ライブドアの宮内氏が社内の内幕について書いた本

ライブドアの宮内氏が社内の内幕について書いた本

大言壮語する若者

なにより面白かったのは、「ネットの世界でナンバー1になります」という言葉だった。 当時の社名はオン・ザ・エッヂ。堀江と、その頃彼がつきあっていた彼女と、もう一人の技術者の3人でウェブ制作を請け負っていた。堀江はまだ東大在学中で、学校にはまったく行っていない状況。その後中退することになるが、どこから「ナンバー1」が出てくるのだろうと思った。本人は大まじめ、しかも自信たっぷりである。 パソコン好きの私には、ネットがメールやウェブの検索、会社紹介のページを見ることだけではなく、必ずビジネス領域に入ってくることが想像できた。そうなると、金融から商取引までのあらゆるサービスが提供できるわけで、空恐ろしくなるようなビジネスチャンスが生まれ、社会にも影響を及ぼすだろう。 だが、そこに誰がどうコミットできるのかがわからない。ベンチャーにもチャンスはあるだろうが、目の前で、威勢よく食べている人相風体のさえない堀江が、「ナンバー1」を宜言しても、正直、「なに言ってんだ、こいつ?」という思いもあったが、「面白い奴」という久しぶりの新鮮感があった。

堀江氏の経営者としての顔

では、堀江はいつの時点で、どう変わったのか。 これは事件を読み解くうえで重要だが、変わったのは、会社がニッポン放送買収を断念、見返りに1340億円のキャッシュを手にし、堀江個人が若干の持ち株を売却して140億円近くの現金を得てからである。つまり、きっかけはカネ。これで堀江の緊張の糸はプッツリと切れ、芸能人や女子アナ、その他の群がる連中と積極的に遊ぶようになった。約30億円で自家用ジェットを購入したのも2005年6月だった。 それまでの堀江は、かなりシビアな経営者だった。ことに数字の追求には手を抜かず、未達の責任者を徹底的に責め立てた。堀江には「表の顔」と「裏の顔」がある。 マスコミインタビューにおける揚げ足を取るような嫌らしさ、正面から答えず反論で逆襲する討論の手法からは屈折した心情や尊大さが感じられるが、素顔の堀江は愛すべきキャラである。お笑いの世界で言う「いじられやすい存在」で、社員も普段「太ったんじゃない?」「社長の髪型おかしいよ」とけなしたりする。それでも堀江は別に怒らない。このいじりやすさと、Tシャツで通す奇妙なこだわりを「表の顔」とするならば、会社における執拗なまでの利益へのこだわりは「裏の顔」だ。この時の厳しさは、バラエティ番組などに出ていた時の「ホリエモン」の緩んだ表情からは想像できない。 増収増益を基調に株価を上げ、その購買力で世界一企業を目指していた堀江にとって、業績は常に前年を上回るものであり、下方修正は許さなかった。粉飾決算に至る最大の理由はそれである。この激しさを象徴するのが、「堀江のスパーク」だ。 一例をあげよう。 ライブドアでは毎週月曜日に堀江を含むライブドアの役員クラスと、各事業部門の責任者が集まる会議を開いていた。このうち、毎月10日以降の最初の月曜日と、毎月25日以降の最初の月曜日の会議を「戦略会議」、それ以外の会議を「営業会議」と呼んでいた。 どちらも各事業部門の責任者が、堀江に経営状況を数字で説明する。「営業会議」では、堀江に対して各事業部門から報告されるのはそれまでの売上実績と見込み数字だが、「戦略会議」では、それまでの実績を含む損益計算書などの財務諸表も提出された。 堀江は数字に細かい。また赤字部門は徹底的に詰める。 子会社化したバリュークリックジャパン(後のライブドアマーケティング)が業績不振で、そのことを同社役員が2004年7月12日の「戦略会議」で、「四半期ベースでも半期ベースでも赤字になる」と報告したことがある。この時の堀江の怒りは凄まじく、頭が完全に「スパーク」、次のように攻撃して手がつけられなかった。 「なんで、なんで。どうなってんのこれ。ねぇ、なんで赤字のままなの。ねぇ、なんで。この 四半期黒字にするんじゃなかったの。どういうこと。ねぇ、なんで」こう詰められてバリュークリックの役員や担当本部長が答えられないと、堀江はさらに切れて手がつけられない状況になった。 「どうしてダメなの。ねぇ、なんでダメなの。どうして赤字のままなの。どうして、どうして、どうして、どうして…」

堀江の数字に対するこだわりは人並み以上で、それは経営者としての優れた資質ではあるのだが、ライブドアという貧弱なポータルサイトを、確立された戦略もなしに「黒字にしろ!」と命ずるのには無理があった。ましてポータルサイト事業は、堀江が「やろうよ」と言い出したことである。私は、 「人に言わずに自分でなんとかしようよ!」 と、喉元まで出かかったことが何度もあった。

しかし、堀江は認めなかった。完全にブチ切れて、こう詰め寄った。 「なんでこうなの。なんでこれしかいかないんですか。これじゃ株価上がらないでしょう。なんとかしようよコレ。なんとかしてよ。もっとちゃんと計算してよ」 「成長」を演出できないのだから、株価は暴落するしかない。堀江が頭にくるのは当然だが、その利益を上げる材料もない。「激詰め」された幹部は肩を落とし、お手上げ状態。結局、いつものようにファイナンス部門で"エ夫”するしかなかった。その時、手元にあった材料はイーバンクである。

未来を読む天才だが、実行力に欠点がある

ナンバー1の堀江と彼を支える私の大きな違いは、堀江に天性の関きがあり、私にはないことだ。堀江の凄かったのは先読みができること。1999年の段階でGoogleと同じような仕組みで広告料金をとるインデックス・サーチという検索エンジンの一種の事業化に取りかかったし、2000年には最近上場した会社で行っているアフィリエイトモデルの広告事業、mixiで一気に有名になったSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の事業化も考えていたし、実際事業化もしていた。 だが、読みが早過ぎるうえに本人の飽きっぽい性格もあって、成熟する前に止めてしまったり、決算数字が足りなくてファイナンス部門でその事業ごと売りにいったりした。ここにライブドアの致命的処点がある。事業を立ち上げて成長させていくのは、事業を起こした者であれば、誰でもその大変さは理解ができるはずだし、一般人にはなかなかできるものではない。また、堀江一人ですべて事業化することは不可能で、それを実現していく者、すなわち実務を担っていく者が必要であった。ところが、たかだか設立2~3年の会社に、堀江から次々と出されるアイデアを事業化し、成長させられる人材はいない。そして結局、堀江のIT分野の閃きを事業に生かせない。だからファイナンス部門が補填していた。

私が感じる堀江の経営者としての美点は、情報収集力と発想力と理解力だ。 どこから収集するのか知らないが、堀江は生きた情報を集め、それをユニークな発想で事業へ結びつけようとする。「これ、伸びるよ」と堀江が言った技術やサービスが何年かして"発"したことが何度もあった。 彼自身、情報の大切さはよく知っていて、「スター・ウォーズのルーク・スカイウォーカーに将来が見えるのは、情報力によるものだ」と言ったりして、常に努力して情報を集め、その情報を自分なりに分析、解析して答えを出す力を持っているようだ。だから、いつも的確。そういう意味では、間違いなく天才だと思う。 ところが、その情報を収集、豊かな発想力で事業化に漕ぎ着けても、それを軌道に乗せるまでの我慢ができない。すぐに飽きるか、早い結果を求めて、有望な事業から撤退したり売却した例が、これまでに幾つもある。これが彼の欠点だ。

ライブドアの方向性は堀江が決める。これはオーナーだし、ビジネスの"一歩先”を読む天性のカンを持っているから当然である。私の役割は、堀江の求める方向に見合った人材を用意、ファイナンス部門で資金的なメドをつけ、それをサポートすることなのだが、「天才・堀江」があまりに多方面に走り出すので、制御するためにも"手抜き”をすることが少なくなかった。つまり、やっている“フリ"をする

とにかくドライで合理的な意思決定

マスコミは「安易な社名変更」と批判したが、崖っぷちに立っていることを自覚してオン・ザ・エッヂと名づけたぐらいで、こだわりはない。むしろ、無意味なこだわりを持つより、知名度がある名前を使う方が合理的である。このような決断は堀江の天才ぶりを証明している。実際、上場は果たしていたものの、まともな事業を育てることができなかったし、育てるだけの人材がいなかった。買収を機にポータルサイトを社名にして、総力を挙げて事業展開することにした。堀江も私も、背水の陣だったのである。

堀江にもそういうところがあった。彼がどんなところでリーダー論を学んだかはわからないが、彼の凄いのは感情に流されないところだった。人を判断するのに「できるか」「できないか」だけを基準にして、.賞必を貫いた。形※な愛情や嫉妬などとは無縁の男である。凄いなと思ったし、やりやすかった。

ただ、仕事となると話は別で、堀江は数字(利益)にうるさく、経費精算はボールペンでも見積もりを取らせるなどシビアで、交際費を一切認めないなど、厳しい経営者の顔を併せ持っていた。 「ライブドアがくれるのは椅子と机と名刺だけ」と新人がボヤくのは正しく、結果(利益)を出していれば文句は言わないものの、仕事を創造できない社員には厳しかった。賞必罰で昇給しダウンもする。給与以外の”余禄”は7万円までの住宅補助だけ。パソコンすら自前で持ち込ませるという徹底ぶりで、そのせいもあって、社員が会社に「甘えの感情」を持つことはなかった。

中核事業を持てなかった

「ライブドアの事業ってなんですか」 と聞かれると、堀江はいつも苛立ち、こう答えた。 「中核事業はありません。というか、あえて持たないようにしている。ネットの領域は無限です。ウェブ上であらゆる事業を展開できる。中核事業を持てば、それに縛られ、中核と見なされた事業の浮沈が会社の評価を定めてしまって危険です」 半ば本音だが、「中核」を持てない悔しさは隠されている。

上場時

1999年11月のことだが、「ネットの世界でナンバー1」の夢を持つ堀江に飛躍のチャンスが与えられた。また、創業3年でライブドアの1999年9月期の売上高は2億6000万円に達し、2年前の堀江以下3人のサークル活動の延長のような会社は、30人に増えてそれなりに企業の体裁を整えていた。 世はITバブルの真っ盛りである。渋谷は「シリコンバレー」を模して「ビットバレー」と呼ばれ、ネット関連企業というだけでもてはやされた。

「上場してみない?」 こう堀江を誘ったのは、私である。 この時、堀江の反応は芳しくなかった。マザーズやナスダックは、まだ創設されておらずピンとこなかったのだろう。ベテラン公認会計士で公開企業に精通する先生に、「上場のメリット」を語ってもらったこともあるが、あまり反応はしなかった。 私も、税理士業務の一環に過ぎないから放置していたところ、IT業界の仲間に吹き込まれたのか、「上場の件なんですけど」と堀江から言ってきた。 1999年夏ごろのこと。だが、この堀江の決断がライブドアを揺るがすことになる。創業メンバーでかつては堀江の恋人でもあったAさんを中心に、10名近くが「小さな規模で無理なく働きたい」と、会社を去ったのだ。この小さな内紛は堀江を変えた。もともと物事にこだわらない人間だったが、一層ドライな人間関係を好むようになった。役に立てばつきあうし、立たなければアッサリと切る。ビジネスに感情は持ち込まず、判断基準を数字に絞る。堀江の経営者としての原点は、ここにあると思う。

ITは若者がリードできる分野であり、社会生活を一変させる可能性を秘めた道具であり、あふれるカネを吸引し、ベンチャーブームや新興市場創設の原動力となった。 その絶頂のなかでライブドアは、首尾よく上場を申請、東証から2度のヒアリングを受け、 3月8日にマザーズ上場を認められた。それは幸運だったが、この後、ITバブルは崩壊、4月6日の上場までの”地合い”は最悪となった。

  • IPOで60億円の資金調達

しかしITバブルの最後に引っかかっていたため、60億円を調達。我々の後の公開企業が、10億円ぐらいしか調達できなかったのを考えれば幸運だった。 その資金をもとにキャピタリスタで行ったベンチャー投資は、「ベンチャーが株式公開で得たおカネで投資事業をやってどうする」と、批判されたものである。だが、何を言われようと、事業の「核」がないのだから、投資やM&Aで有望な事業を見つけるしかない。幸い、ITバブルの崩壊で、”手ごろ”な企業を安く入手できた

140億円のキャッシュでやる気を失う

問題は、やはりニッポン放送争奪戦を終え、すっかりスターとなった堀江が、仕事への情熱と緊張感を失ったことだ。2005年6月、株の一部を売却、140億円のキャッシュを手にしてから、その傾向はひどくなった。 前日、遅くなっても会議には出ていた堀江が出てこない。夕方から常に宴席か合コンか、何かはわからないが用事を入れていて、会議をしていても時間ばかり気にして身が入らない。

仕事は圧倒的に面白くなった。なのに、不思議なことに、前年は収益不足を理由に、会議で切れまくっていた堀江が、うそのようにビジネスへの関心をなくしてしまった。そのうえで彼が熱心に語り出したのが「宇宙」である。彼個人の株売却代金の大半は宇宙事業に使うつもりのようだった。 一方で、投票に行ったこともない堀江が「政治家になる」と言い出した。「小泉内閣の間に閣僚になって、ゆくゆくは総理を目指す」とも言う。 こうなると、凡人の私にはついて行けず、本人には夢を叶えるべく頑張ってもらうしかない。少なくとも「ライブドアの堀江」である限り、彼は何十億円分にも相当する優れた「広告塔」である。ただ、事業に停滞は許されず、そこは私が取り仕切るしかない。 それが2005年下半期のライブドアだった。

矢面に立つ者としての成長

理解力があって頭もいい堀江は、成長が早い。 堀江が一般マスコミに登場するのは、2004年6月に近鉄バファローズの買収を表明してからだが、以降、プロ野球新球団設立、ニッポン放送買収、総選挙と、2005年9月までのわずか1年強の間に、堀江は「ホリエモン」として誰もが知っている会社経営者プラス芸能人となり、その間、堀江の会話術は磨かれ、テレビのバラエティ番組から討論番組、そして演説まで器用にこなすようになった。 初めて会った時の堀江は、目を合わせて話すのが照れくさいような表情を浮かべていた学生だった。27歳で株式を上場した時も、記者会見でボソボソと小さな声でしゃべるので、私が後を引き取って説明したほどだ。それが、数々のテレビ出演を経て話がうまくなり、総選挙で「簡単に言え」「すべて簡単に置き換えろ」と、武部幹事長に"指導”されてからは、会話やスピーチがさらに上達した。 それに合わせて、自分をアピールする術も身につけていった。これは悪口で言うのではないが、ライブドアにおける資本戦略で「100分割して流動性を高める」というのは管理・IR担当の熊谷史人の発想であり戦略だったが、それを取り入れ、あたかも自分の考えであるかの ように発言する。 私のなかの不器用な堀江のイメージはまったくなくなり、政界からマスコミにまで幅広く人脈を確保した世慣れた堀江が、プライベートジェットまで購入、どこまで飛んでいくのかわからない状況だった。少なくともライブドアという”小さな枠”にとどまっているつもりはなさそうだった。

ライブドアの社内文化と制度

ライブドアは「堀江カラー」に染められていた。 服装は自由で、勤務はフレックスタイム制。自由度が高い分、仕事は自ら創造することが基本。それがなければただの作業要員とみなされて、面白いことができないうえに給料も安い。 最低水準は月18万円で、業績に応じた報酬もないから年収220万円。ファストフードのアルバイト店員と変わることがないから、辞めていかざるを得ない。 その代わりに、ライブドアを踏み台にステップアップしようと考える野心家には都合のいい会社だった。六本木ヒルズの38階ワンフロアをほぼぶち抜きで使い、いろんな業種のユニークな人材が集まっているから刺激を受けるし、ビジネスチャンスに触れることも多かったはずだ。

マスコミの人から「会社と社員というより、フランチャイズとフランチャイジーのような関係ですね」と言われたことがある。会社は社員に職場環境を整えてやり、「ライブドア」というブランドを与える。社員は、経営資源を利用して稼ぎ、それに応じて報酬が支払われ、会社にはフランチャイズ料が残る。 そこまで意識はしていないし、それほどドライな会社でもないのだが、会社への忠誠心を「利益で示せ」というシビアさはあり、ムダな支出をしなかったのは事実だ。 福利厚生は7万円の住宅手当だけ。経費には厳しく、どんな備品購入にも相見積もりを取らせ、執行役員(事業本部長を兼務)でも決済権限は5万円まで。黒字を経営の基本において、ノルマ(営業利益)を達成しない幹部は厳しく比責、信賞必罰で降格させるのが、堀江の経営手法だった。

スキルのある人間を雇うから「研修会」などもない。随時採用なので週に何人もの新入社員がメールで自己紹介、同じような数だけ退職者の「お知らせ」も流れ る。 堀江が社員に求めるのは「稼いでくれるかどうか」だから、「歓迎会」には一律3000円の補助を出すが、「送別会」には出さない。みんなと親しくなるのは業務をスムーズにするから意味はあっても、会社を出て行く人間にはなにかしてやる必要はないと、合理的だ。 ただ、経費をトコトン削るだけでなく、忘年会と社員旅行にはカネをかける。社員に一体感を持ってもらうためのイベントと考えるからで、2004年の社員旅行はタイのリゾートのプ 1ケット、2005年はグアムだった。 唯一の福利厚生である月額7万円の住宅補助は、評判が良かった。「満員電車に幸せなイメージはない。みんな職場の近くに住むべきだ」と著書などで述べている堀江は、自分でそれを実践、会社の隣の六本木ヒルズ住宅棟に住んでいた。私も平日はそこに住んでいた。だから7万円は、少しでも近くに住めるようにという合理的な制度である。

ソニー買収を考えていた

堀江は堀江で、ソニー買収を考えていたからである。 ソニー買収は、ボーダフォンよりさらに現実味のない計画ではあった。世界ブランドのソニ 1が経営者不在で株式時価総額を大きく落とし、3兆円台で低迷していた。ソニーの総合力、知名度、商品開発力、人材、技術力と、何をとってもいまだに世界的企業であり、株価は安すぎた。 そのソニー買収のために、レバレッジを最大限に利かせてもライブドアが調達できる資金は 1兆円がいいところだろう。株で資金を調達してきたライブドアには負債はほとんどなく、逆に手元流動性はあり、社債を発行すればシングルAがほぼ確実ということで、最大5000億円が期待できた。そのほか、MSCBを含むさまざまな金融テクニックを駆使すれば、1兆円にはなった。 だが、ソニーは日本が誇るブランドであるのに対し、ライブドアは「行儀の悪い若造集団」でしかない。フジサンケイグループの時のように、「ネットと放送の融合」のような”“お題目”がつけばいいが、ソニー買収は、ライブドアを世界ブランドにしたいという堀江の個人的野心でしかない。しかも敵対的。なにをとってもうまくいく要素はなかった。

ライブドアの3つの転換点

ライブドアには、設立以来、三つの大きな転機があった。 最初は株式上場。これによりホームページ制作の小さなベンチャー企業は、堀江の「世界一」への夢に向けて、踏み出すことができた。最初にやったのは、上場益を使ったデータセンター事業とベンチャー投資事業。このうちデータセンター事業は失敗で大きな赤字を出し、べンチャー投資事業は成功、本業の不振をここでカバーするようになった。

二番目はポータルサイト事業を核にしたビジネスモデルの確立。きっかけは2002年11月のインターネットプロバイダー業者のライブドア買収。「今さら、Yahoo!を追い越せるのか」と危惧する声は社内にもあったが、「これで行く!」と決めた堀江は、内外に宣言するためにもオン・ザ・エッヂという社名を、ライブドアに変えた。 それ以降のライブドアでは、ポータルサイトの知名度をどう上げて、いかに利用者の数を増やすかに精力が注がれた。そのためにはライブドアの持つメニュー(サービス)を豊富にしなければならず、M&Aを積極的に行い、サイト上の会社を増やしていったのは当然の成り行きだった。その過程で、近鉄バファローズ、イーバンク、ニッポン放送といったチャレンジがあった。 近鉄はプロ野球というコンテンツ、イーバンクはネットと親和性の高い金融業、ニッポン放送はネットと放送の融合である。それぞれに買収を仕掛ける理由はあったし、一見、バラバラな事業を取り込むことができるのがポータルサイトの凄さだろう。夢を食うバクのようなもので、ネットに取りつかれると何でも欲しくなる。 だが、ライブドアはすべて失敗した。理由は多々あるが、結局、我々は未熟だったのである。準備も不足していたし、敵対的買収の怖さも知らなかった。知名度が高くなってポータルサイトの人気も高まり、「出たがり」のホリエモンの欲求を満たしはしたが、最後に東京地検特捜部の登場という形で出る杭が打たれたのも、敵対的買収によって敵をつくってしまったからだろう。

ただ、その代わりに1340億円という途方もないキャッシュを手にした。これでライブドアは3度目の変化を遂げようとした。リアルビジネスの取り込みである。ジャック・ホールデイングス、セシール、ダイナシティの買収がまさにそうで、中古車販売、通販、不動産という販売拠点があって営業マンがいて大きな売り上げが上がるという業種を取り込んだことで、事業規模は拡大できた。 もっとも、これがライブドアグループにどう貢献するかという成果はまだ上がっていなかった。買収したばかりだったし、企業を掌握もできていなかった。ポータルサイトに中古車や通販や不動産の客の一部を取り込むことはできただろうが、それだけでは何のために買収したかわからない。両者の長所を調整し、融合に手をつけようと模索している段階で、検察の摘発を受けたのだった。

Last updated on Nov 06, 2024 00:00 JST
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