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58/ 夜と霧

精神科医のヴィクトール・フランクル氏がナチス強制収容所の内実について書いた本

精神科医のヴィクトール・フランクル氏がナチス強制収容所の内実について書いた本

土壇場での「恩赦妄想」と「好奇心」

精神医学では、いわゆる恩赦妄想という病像が知られている。 死刑を宣告された者が処刑の直前に、土壇場で自分は恩赦されるのだ、と空想しはじめるのだ。 それと同じで、わたしたちも希望にしがみつき、最後の瞬間まで、事態はそんなに悪くはないだろうと信じた。

見ろよ、この被収容者たちを。頬はまるまるとしているし、血色もこんなにいいじゃないか。

やけくそのユーモアのほかにもうひとつ、わたしたちの心を占めた感情があった。好奇心だ。 世界をしらっと外からながめ、人びとから距離をおく、冷淡と言ってもいい好奇心が支配的だった。 さまざまな場面で、魂をひっこめ、なんとか無事やりすごそうとする傍観と受身の気分が支配していたのだ。わたしたちは好奇心の塊だった。 この先いったいどうなるのだろう、どんな結末が待っているのだろう。 たとえば、丸裸で、シャワーを浴びたためにまだずぶ濡れで、晩秋の寒さのなか、戸外に立たされることの結末やいかに。

人は何事にも慣れる

収容所暮らしでは、一度も歯をみがかず、そしてあきらかにビタミンは極度に不足していたのに、歯茎は以前の栄養状態のよかったころより健康だった。

半年間、たった一枚の同じシャツを着て、どう見てもシャツとは言えなくなり、洗い場の水道が凍ってしまったために、何日も体の一部なりと洗うこともままならず、傷だらけの手は土木作業のために汚れていたのに、傷口は化膿しなかった

以前は隣りの部屋でかすかな物音がしても目を覚まし、そうなるともう寝つけなかった人が、仲間とぎゅう詰めになり、耳元で盛大ないびきを聞かせられても、横になったとたんにぐっすりと寝入ってしまった。

人間はなにごとにも慣れる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しかったかを思わずにはいられない。 人間はなにごとにも慣れることができるというが、それはほんとうか、ほんとうならそれはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。

異常な状況では異常こそが正常になる

「… ずっとその調子でいるんだ。そうすれば、ガス室なんて恐くない。ただ、例外は──君だな」 彼はわたしを指さした。 「悪く思わないでくれるな?はっきり言おう。心配があるとすれば君だ」彼はもう一度、頭でわたしをさし示した。 「君たちのうちで、つぎの選抜で問題になるのは、まあ君ぐらいのものだ。だから、安心しろ」 誓って言う。そのときわたしは 微笑んだ。わたしの立場にいたら、だれでもそうするしかなかったと思う。

ゴットホルト・エフライム・レッシングは、かつてこう言った。 「特定のことに直面しても分別を失わない者は、そもそも失うべき分別をもっていないのだ」

異常な状況では異常な反応を示すのが正常なのだ。

過去の愛を思い返すだけで幸福を感じられる

そのとき、ある思いがわたしを貫いた。 何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。 愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。

今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を 会得した。愛により、愛のなかへと救われること!

人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。

絶望的な状況では自我は群れの一部にまで落ち込む

こうした雰囲気のなかでは、ついにはみずからの自我までが無価値なものに思えてくるのだ。

強制収容所の人間は、みずから抵抗して自尊心をふるいたたせないかぎり、自分はまだ主体性をもった存在なのだということを忘れてしまう。 内面の自由と独自の価値をそなえた精神的な存在であるという自覚などは論外だ。 人は自分を群集のごく一部としか受けとめず、「わたし」という存在は群れの存在のレベルにまで落ちこむ。 きちんと考えることも、なにかを欲することもなく、人びとはまるで羊の群れのようにあっちへやられ、こっちへやられ、集められたり散らされたりするのだ。

どんな環境でも最後は自分次第

では、人間の自由はどこにあるのだ、あたえられた環境条件にたいしてどうふるまうかという、精神の自由はないのか

強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。 そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない。 実際にそのような例はあったということを証明するには充分だった。

つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。 典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。

かつてドストエフスキーはこう言った。 「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ

この究極の、そしてけっして失われることのない人間の内なる自由を、収容所におけるふるまいや苦しみや死によって証していたあの殉教者のような人びとを知った者は、ドストエフスキーのこの言葉を繰り返し噛みしめることだろう。 その人びとは、わたしはわたしの「苦悩に値する」人間だ、と言うことができただろう。 彼らは、まっとうに苦しむことは、それだけでもう精神的になにごとかをなしとげることだ、ということを証していた。 最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。 なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。

おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげられないのなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。

しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。 すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。 もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。 抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだ

  • その場その場で、ベストを尽くす

凡庸なわたしたちには、ビスマルクのこんな警告があてはまった。 「人生は歯医者の椅子に坐っているようなものだ。さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう」 これは、こう言い替えられるだろう。 「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」 けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。 おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。

未来に目的を持ち、信じることこそが生きる力となる

その人たちは、おおむねよりどころとなるものをもっていた。そこにはたいてい、未来のなにがしかがかかわっていた。人は未来を見すえてはじめて、いうなれば 永遠の相のもとに のみ存在しうる。これは人間ならではのことだ。

しかし未来を、自分の未来をもはや信じることができなかった者は、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに精神的なよりどころを失い、精神的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのだ。

強制収容所の人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的をもたせなければならなかった。 被収容者を対象とした心理療法や精神衛生の治療の試みがしたがうべきは、ニーチェの的を射た格言だろう。

なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える

したがって被収容者には、彼らが生きる「なぜ」を、生きる目的を、ことあるごとに意識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」に、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。

ひるがえって、生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人は痛ましいかぎりだった。 そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。 あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのはきまってこんな言葉だ。

「生きていることにもうなんにも期待がもてない」

こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。

人生に意味を求めるのではなく、義務を果たす

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。 わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。 哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。

生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

Last updated on Oct 04, 2023 00:00 JST
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