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90/ 稀代の勝負師 孫正義の将来

ソフトバンクの創業から2000年までを詳しく記述した本

ソフトバンクの創業から2000年までを詳しく記述した本

孫正義の原点

「僕は日本で生まれて日本で育った。韓国語も話せませんし、日本が大好きなんです。そして九一年にようやく日本国籍も取った。なのに、(日債銀を買ったことにより)みんなから非国民のように言われたらホント悲しいですよ。  すぐに理解してくれとは言わんけど、五年、十年経ったときには誉めて欲しい。死んでからしか誉められないのかもしれんけど、それでも構わんから!」  「みんなに誉めて欲しい」──これこそが、孫を「革命」の最前線へ向かわせるエネルギーの源のように思える。  孫は少年の頃、父親の孫三憲から「おまえは天才だ」と言われるのがうれしくて仕方がなかったという。〝みんな〟から「すごいね」「天才だね」と誉めてもらうために、孫は休むことなく走り続けているのだ。

孫一族

また、現在の住居も九八五坪の広大な敷地に真新しい一一三坪の建物を建設しており、鳥栖市では随一の居宅である。なお、昭和五八年の納税額は一億三六七六万円で県内でトップにランクされた」。  「孫氏の兄弟も各地でパチンコ店を経営中で、姉の大竹清子が太陽一〇〇万ドルグループ、弟の孫在憲が北九州を中心に王様グループ、孫成憲がタイガーグループを各々経営している」。  三憲が中心となり、一族が力を合わせて九州北部に一大パチンコチェーンを築いていったことが分かる。  なかでも、父親が「物事すべてにスケールが大きくケタ外れの人物」である点は興味深い。孫とそっくりである。

創業秘話

  • 日本に戻って福岡の「経営のマネジメントゲーム」コミュニティ経営総合研究所で知り合った年長者たちの助けを借りて起業

     「孫さんは小さい資本をパートナーシップで大きくしていく手法で、マネジメントゲームに勝っていた。ランチェスターの法則の基本は『大きい者が必ず勝つ。小さい者は負けない戦いはできるが勝つことはできない』ということです。今のソフトバンクの経営を見ると、ランチェスターの法則そのものですよ」。 孫はマネジメントゲームで知り合った三〇歳代の年長者達の助けを借りて、八一年九月に日本ソフトバンクを起業した。最初に起業した場所は福岡県大野城市である。 八一年一〇月にはオフィスは福岡から東京へ移る。最初のオフィスは経営総合研究所の事務所に間借りしただけの小さなもの。そもそも日本ソフトバンクは、孫と経営総合研究所が五〇〇万円ずつ資本金を出し合ってできた会社だった。経営総合研究所との資本関係はすぐに解消されたが、人的な交流はその後も続く。

  • 最初の一年が一番大変

    今考えてみても、最初の一年間が一番大変だったと思いますね。  だって、それこそ動物の赤ちゃんだって、最初の一年を乗り越えるまでが波瀾万丈なわけでしょう。トカゲとかヘビとかハゲタカとか、いろいろな天敵が狙っているわけです。そういうところから、小さい体で身を守って乗り越えて行くわけですから。そういうステージを乗り越えれば、それなりに自分の足で歩けるようになるわけです。今思っても、最初の一、二年のほうが毎日のように胃の痛い思いをしていました。

    小さなベンチャーカンパニーを今スタートさせる方々に対しては、このステージを何とか歯を食いしばって乗り越えれば、後は意外と楽ですよ、とアドバイスしたいですね。真っ正面から取り組んで乗り越えることそのものが将来の自分たちにとって一番重要なことだと思います。  体を鍛える、精神を鍛える、この両方の意味で欠かせませんし、すべての経営の基本がそこに入っていますからね。この時期に、人事、技術、資金、営業など全方位の体験ができるわけです。

最初の事業: ソフトの流通卸

  • 25歳~28歳まで入院

その間、八三年四月から八六年二月までは社長業を野村證券出身でセコム副社長のポストから招聘した大森義彦に譲った。  このとき、大森はソフトバンク株の三〇% を保有する第二位株主にもなっている(孫が七〇% 保有)。大森は孫の能力を高く評価しており、孫のサポート役を任じていた。そして、実際の経営は創業時メンバーを中心とした現場に任せた。

 「孫さんは営業マンとしては優れており天才。でも、実際にソフトウェア流通を立ち上げたのは自分たちだと思っている。孫さんは入院しておりほとんど現場を見ていなかったし、他のビジネスに浮気もしていた。株式の持ち分や資金の使途をめぐって孫さんとやり合った直後、私は大森(後述)に解雇を言いわたされた」。  今ではあまり語られることがないが、急拡大する中で血なまぐさい内部対立が頻発していたのも事実だ。

  • ソフトの流通卸事業には強い競合が2社ほどいたが、その2社とも投資の失敗で自滅していった

    現在、ソフトバンクの流通部門を一手に引き受けるソフトバンク・イーコマース社長の宮内謙はソフトウィング設立で受けた打撃を振り返る。  「ソフトウィングには商品部長以下の人材をごっそりと引き抜かれてしまった。価格競争が激しくなり、粗利がそれまでの三〇% から一〇% にストーンと落ちた。これは創業以来の大きな危機だった」。

経営危機を発明で稼いで救った

あらかじめ売り込み先を定めた「必ず売れる発明」は、孫独特のやり方である。当時、DDI、日本テレコムなどは年間一〇〇〇億円単位で設備投資を行っており、孫に数億円を払うくらい小さな投資に過ぎない。学生時代に発明した多言語翻訳機のケースでも、電卓やポケコンで世界に冠たるシャープを売り先の本命に定めていた。シャープが買ってくれそうな「売れる発明」をしたのである。  多言語翻訳機にNCCBOX。自分の「知能」で大金を稼いだ二度の経験は、孫の大きな自信となった。

孫は八五年にソフトバンクとは資本関係のない「日本データネット」を設立。『TAG』という雑誌を発刊した。これは商品データベース、価格データベースをもとにさまざまな商品の情報を掲載した雑誌だ。  テレビコマーシャルも打ったが新雑誌は全く鳴かず飛ばず。六ヵ月の間に巨額の赤字を生んだ。孫は個人で一〇億円の借金を抱える窮地に立たされる。

「僕はエンジニアではないからアイデアを実際の製品にすることはできない。そこで、トランジスタのことが分かるエンジニアを探した。トランジスタ関係の雑誌をダーッと買ったらCQ出版の『トランジスタ技術』に坂野さんという方が記事を連載していた。すぐに編集部に電話して、坂野さんの電話番号を聞いた。  そして、坂野さんにアイデアを話してみたところ、『作ることは可能』ということだった。秋葉原でパーツを買ってきて作り上げて下さり、僕はそれを第二電電各社に売り込みました。  このやり方は、バークレーの学生時代に発明した多言語翻訳機と同じ方法です。僕がアイデアを練り上げて、それを専門のエンジニアに作ってもらうわけです。  坂野さんはその後、日本データネットに就職して下さいました。ご病気で亡くなられましたが、ソフトバンクはこれまでに、本当に数え切れないくらいの多くの専門家の方に支えられて、成長してきたんです」。  日本データネットはこのNCCBOXを第二電電各社にライセンス供与し、ロイヤリティ収入を稼ぐビジネスモデルを確立した。

最初は俗な欲望もあった

二〇〇〇年六月二二日に開かれた定時株主総会後の「近況報告会」で、入院時代のことを次のように語っていた。「孫さんの人生の目的はいったい何なのか?」という株主からの質問への回答だったと思う。  「病院から抜け出して記者会見に出たり会社の会議に出たり、本当に死ぬ思いで働いていた。入院する前は少しでもソフトバンクを大きくしたい、ライバルには負けたくない、少しでも多く稼ぎたい、うまいものを食いたい、などいろいろな欲望があった。しかし、入院したときに『死ぬかもしれない、五年持つかどうか』と言われた。

死ぬかもしれないとなると、これまでの欲望がどれも小さなものに思えてくるわけです。本当にソフトバンクを大きくしていくことが幸せなのかどうか、真剣に悩みました。  そこで至った結論は、自分の人生の目的は笑顔だと思ったんです。取引先、従業員、株主など身の回りの人たちがニコッと笑ってくれれば嬉しいじゃないですか。心底、そう思うんですね。身の回りの人たちだけでなく、地球の裏側の小さな女の子が、何かソフトバンクのかかわったものを見ながらニコッと笑ってくれたら、それが究極の幸せなんじゃないかと」。

孫は病気をきっかけにアルコールを全く飲まなくなった。「親父が肝臓や十二指腸を患い、吐血したこともあるため」、それまでも意識してアルコールを遠ざけていたのだが、大病を機に、全くといっていいほど飲まなくなった。  もちろん、健康には人一倍気を遣っており、たばこも吸わない。「お金を払ってまで体に悪いことをする必要はないですから」と孫。好物は、抹茶アイス、白玉入りの宇治金時である。大の甘党だ。  一方、孫と同世代のベンチャー経営者を見回すと、夜の付き合いが大好きな人が多い。人脈は酒の席で広がっていく。ところが、孫は全く酒を飲まないため、酒の席には意識的に参加しない。たとえ参加したとしても、お茶やジュースばかり飲んでいる。酒の席では「あいつが悪口を言った」「いや言っていない」などなど、つまらないトラブルが起こりがちだが、孫は酒のトラブルとは無縁だった。  「とにかく朝から忙しいですから。夜まで持たんわね」。

上場までは自分で育てるフェーズ

ソフトバンクの経営のステージという意味で言えば、第一ステージは創業から株式公開の九四年までですね。自分の持っている経営資源の範囲の中だけでコツコツと積み上げていく世界です。自分が一生懸命、種をまいて、耕して、水をまいて、一個一個を手作業で作り上げていくステージです。  第二ステージは株式公開以降ここまでの二年間くらいです。公開することによって信用力、資金力を得てM& Aを行えるようになった。そして第三ステージは第二ステージで得た収益力、キャッシュフローをベースに大きな勝負をしていくステージ。JスカイBに相当程度、集中したいと考えております。今はちょうどその転換点です。

コムデックスの買収で要人コミュニティに入る

言うまでもなく、超有名展示会を手に入れたことによるインパクトは抜群だった。ビル・ゲイツはもちろん、インテルのアンドリュー・グローブ、デルコンピュータのマイケル・デルら、パソコン業界のトップ達と対等に語り合えるポジションを手に入れた。  カネでは買えないような人脈を手に入れたことが、コムデックス買収によって得た最大のリターンだった。

北尾吉孝の採用

九一年に野村證券を襲った「損失補塡事件」により、北尾を高く評価していた役員幹部は軒並み野村證券の経営中枢から去っており、出世への道は暗かった。北尾にとって野村は居心地のいい職場ではなくなっていた。  孫が北尾に声をかけた時は、まさにベスト・タイミングだったのである。

盛って話すことはある

孫は「大胆」と言われることがあまり好きではない。よく「僕は慎重すぎるほど慎重です」という言い方をする。その証拠として、「ジフを買収する際にはパソコンを使ってあらゆる角度から収益シュミレーションを行った」「プリントアウトした資料の山はものすごい量になった」という説明をすることがある。  が、当時の財務経理部のスタッフに言わせれば、「それは孫さんの誤解だ」と言う。  「プリントが多かったから孫さんは驚いたかもしれないが、それは契約書や政府関係への提出用書類。M& Aというものはもともと書類がめちゃめちゃ必要。孫さんは大きな指示を出した後は現場に任せていたため、本人はシミュレーションはやっていないと思う」。  思い描くソフトバンク・グループ像に必要不可欠だと思い詰めれば、孫は資産の細かい内容などそれほど気にしない。「払えるのなら買う」というシンプルな判断で、前へ前へと進んでいく──。どうやら、これが実態のようだ。孫の「勝負師」たるゆえんである。

ビル・ゲイツとの交流からインターネットの波をいち早く検知

コムデックス開幕を翌日に控えた一一月一二日、孫は戦略大転換を前に鬼気迫るゲイツと共にゴルフをしている。このとき、ゲイツの口から出てくる言葉はインターネット一色。  孫は直感的に感じた。  「ゲイツも本気になった。いよいよ本格的にインターネット革命がはじまるぞ。これはソフトバンクも大きな仕掛けを打っておかないとまずいな」。

  • ヤフーには他の日本企業も接触していた

英語版のヤフーは日本法人ができる前から日本のインターネットユーザーの間で広く知られており、一、二位を争う人気サイトだった。  当然、ヤフー上陸時のパートナーとして名乗りを上げたのは、ソフトバンクだけではない。電通など一〇社以上の日本企業が合弁会社設立の提案を行っている。  ソフトバンクがヤフーに接触したのは、むしろ遅すぎるほうだった。それでも、熱心さで勝るソフトバンクが、ヤフーの結婚相手に選ばれた。

二月にヤフーはナスダックに株式を公開する。この時にソフトバンクは一〇〇億円の第三者割当増資を引き受け、持ち株比率は三五% に高まった。

リクルートの買収検討

孫はアメリカの会社だけを買おうと考えていたわけではない。国内の未上場会社にも目を付けていた。リクルートである。  九六年と九八年の二回にわたり、孫はまっすぐオーナー企業のダイエーを率いる中内功のところへ行き、リクルートを売ってくれるよう直球勝負を挑んだ。ところが、中内の心情を害しただけで終わってしまう。  中内に断られても、孫は引き下がらなかった。安比高原でバカンスを過ごしていた創業者の江副浩正を訪ねるなど、孫の執念と行動力は凄まじかった。リクルートのように豊富な情報コンテンツを持つ会社を押さえることで、「デジタル情報革命」後の主導権を固めたかったのだ。  しかし、九六年の中頃から徐々に買収の方向性が曖昧なものに変わってくる。

CCC増田氏とは犬猿の仲

当時、孫の心の中では、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)社長の増田宗昭が中心になってまとめたデジタル衛星放送「ディレクTV・ジャパン」への対抗心が燃え上がっていた。米国で大成功しているディレクTVが日本に上陸する際、CCCと共にソフトバンクも出資する段取りのはずだった。ところが、孫と増田は行き違いにより決裂。完全に犬猿の仲となっていたのである。

インターネットバブルは2回

アメリカには何度かインターネット株ブームが訪れている。その最初は九五年だ。ブラウザソフト「ナビゲーター」のネットスケープ株が空前の大ブームとなった。このとき、ネットスケープだけでなく、シスコ、マイクロソフト、サンなど、インターネット関連、パソコン関連のテクノロジー企業が高く評価されていた。

そして、次にネットブームの山が訪れるのが、九七年暮れ以降だ。九七年一二月、〝インターネットクリスマス〟がアメリカを襲ったのである。消費者が予想を上回る勢いでインターネットを通じて買い物をするようになり、これ以降、インターネット上で展開するベンチャービジネスが大ブームになっていく。

孫正義の情報革命のフェーズ分け

情報産業を四つのステージに分けると、まず最初は「アナログ情報テクノロジー」の会社があります。このステージでの主役は、雑誌や新聞を印刷する会社、あるいはラジオやテレビを製造している松下電器やソニーのような会社です。  その次の第二ステージが「アナログ情報サービス」。織田信長が鉄砲というテクノロジーを使って戦いを変えたように、テクノロジーを道具として使っていく産業が伸びる時代。このステージの主役は、テレビ局、出版社、新聞社などのいわゆるマスメディアです。  そして現在は、第三ステージの「デジタル情報テクノロジー」が非常に大きな成長をしている。主役はインテル、マイクロソフト、シスコ。株式時価総額を見ても、現在の主役はデジタル情報テクノロジーです。  そして、次の第四ステージは「デジタル情報サービス」。今度はデジタル情報テクノロジーを武器にして、サービスを提供する会社が大きく伸びる。ソフトバンクは、この第四ステージで、圧倒的ナンバーワンになるべく、着々と布石を打っているわけです。

北尾吉孝のディーリングで上半期で17億円

九八年七月、ソフトバンク本社応接室で取材をした時の印象は強烈だ。応接室にやってくる時、北尾はロイターの小さな携帯端末を持って現れた。「何をしているんですか」と尋ねると、「これで為替の取引をしとるんや」という。  「僕は朝起きたらまずこの端末を見ている。アメリカのEトレードへの出資金などアメリカへ送金する資金をそのまま眠らせていてはもったいないので、僕はディーリングで稼いどる。実需を背景にしたディーリングだから安全。僕がやれば絶対に損はしない。  例えば、小渕さんが首相になると分かっておったからどどっと買って、就任した朝にどどっと売った。これで何億円も儲けた。僕一人が稼ぐ為替の利益だけで一〇〇〇人の社員が稼いでいる利益より大きくなるかもしれない。この上半期だけで一七億円も稼いだんだから」。  実際、九九年三月期にソフトバンクが計上した為替差益は三九億円にもなっているが、このうちの多くが北尾のディーリングで稼ぎ出されたものだった。

北尾氏が事業へ

北尾は野心を隠さない。  「野村はホールセール(法人・機関投資家向け業務)に力点を移している。ソフトバンクはリテイルでナンバーワンになるよ」。  また、「僕は相当程度、イー・トレードに専念したい。だからオフィスの場所も他へ移すよ。本社にいると社長から五分に一度のペースで電話がかかってくるから仕事にならん」と、本音を吐露していた。  ソフトバンクは北尾がつきっきりで財務を見なければならない状況ではなくなっていた。そこで、北尾自身も起業家として半独立していくことを指向し始める。実際、ソフトバンクを分社化していく動きも、北尾が強力に押し進めたものだった。

二〇〇〇年一〇月時点で五八社も参戦しているオンラインブローカー業界は、さながら戦国時代。激しい手数料引き下げ競争もあり、着実に黒字を出し続けている会社は少ない。この中にあって、イー・トレードはブローカー業務に特化せず、新規公開株の引き受けや投信の販売も積極的に行うことで特徴を打ち出している。そして、早々と黒字体質を身につけた。  「イー・トレードのライバル? 松井やマネックスのようなオンラインブローカーではない。我々のライバルは、野村、大和、日興だ」。  北尾は、イー・トレードを総合証券会社に育て上げることを、本気で目指しているようだ。

毎朝五時から六時までを読書の時間に決めている。週に二、三冊は読んでいる。たとえ前の日に三時まで起きていたとしても五時には起きている。リーダー自らが勉強をしないと、ソフトバンク・ファイナンスの役員会やCOO会議でみんなを引き付けることはできない。  この気力、体力が続かなくなったら、その日のうちにソフトバンクを辞める。

ナスダック・ジャパン設立時に第2の日証協を作ろうとしていた

孫の構想どおりに進めるためには、現在ある日本証券業協会とは別に、新しい証券業協会を作る必要がある。証券取引法によれば、新しい証券業協会を作るには六社以上の証券会社が加盟しなければならない。実現に向け、どのように証券会社を口説いていくのか──問われていたのはまさにここだった。

トランスフォーマーよりピュアプレイヤー

純粋にインターネットだけを本業としてやっているピュア・プレーヤーでないと我々は興味がない。  既存の事業をたまたまインターネットに置き換えたトランスフォーマーには興味なし。これは性転換者みたいなものです。途中で転換する人よりも最初からピュア・プレーでやる人のほうがはるかに強い。マイクロソフトは最初からパーソナルコンピュータのピュア・プレーヤーだった。  インテルにしてもそうです。途中から大型コンピュータから来たとか、ミニコンから来たという会社より、ピュア・プレーヤーのほうが強いんですね。

興味ないね。  要するに、僕はこれから一〇年間、インターネットのこと以外はささやかないでくれ、僕の目の前に見せないでくれ、と思っているわけです。興味ないんだと。例えば一〇〇億円の価値の物を一億円でくれると言ったって僕は興味ゼロ。目先のオカネに興味なし。九九億円のギャップがあっても僕には興味なし。他の欲しい人がどうぞと。僕の頭のほんの一部分もそこに取らないで欲しい。  インターネット以外のことで利益を上げたとしても、そんなものはソフトバンクの戦略から見れば、誤差だと。要らないということなんです。つまり、自分達の志とか、戦略とずれたところへ行っても、大したリターンはない。

デジタル情報革命は相当長く続く

デジタル情報革命というのは、相当長く続くのではないかと思うんですよ。  つまり人間の体で考えてみると、足の機能を延長したものが鉄道や自動車でしょう。手の機能を延長したものが、洗濯機だとか、掃除機だとか、いろいろありますね。  デジタル情報革命というのは、頭の延長なんです。人間の脳の機能の延長ですから、人々の知恵と知識を分かち合うということです。  これは足の延長、手の延長と比較しても大きい話でしょう。ですから、結構長く続くのではないかとは思うんですよね。ソフトバンクはその知恵と知識を分かち合っていく成長産業を、常に追い求めていくということですね。

Last updated on Oct 02, 2024 00:00 JST
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