ソニー創業者の井深大さんがホンダ創業者の本田宗一郎さんについて書いた本
井深さんと本田さんの性格
本田さんも私も、仕事では自分勝手というかわがままというか、唯我独尊のところがありますから、もしふたりが仕事を媒介につながっていたら、すぐけんか別れをしていたかもしれません。
私のほうは、どちらかといえば無口というか、あまり愛想がよくありません。お酒も飲めませんから、ふたりでいると、本田さんがひとりでお酒を飲んでは冗談を言いまくっていて、私がそれを黙って聞いているといったぐあいでした。
本田さんと私は、性格的には正反対の人間だということはまえにもふれましたが、とくに人生の遊び心のほうでは、私はまったく本田さんの足もとにも近寄れませんでした。真面目いっぽうで、しゃれっけのかけらもない堅物の私のことを、本田さんはさぞ、しかたのないやつだと思っていたことでしょう。
井深さんと本田さんの出会い
私が、本田宗一郎という名まえをはじめて知ったのは、一九五〇年(昭和二十五年)ころだったと思います。本田さんが浜松で、自転車につけるエンジンを売り出したときです。いまの若い人には想像がつかないと思いますが、戦後まもないこのころは、ものがまだまだ不足していました。自動車などごく一部の人しか乗れない贅沢品で、国産車だと箱根の山がなかなか越せずに苦労した時代です。庶民の足といえば、もっぱら足でこぐ自転車でした。もちろん、道路はほとんど舗装されていませんし、自転車そのものも、いまのようにスポーツタイプのすぐれた性能のものではありません。その自転車に取りつけられるエンジンを考えたのが本田さんで、当時これは画期的な商品だったのです。
当時は、ソニーもまだ東京通信工業といっていて、四苦八苦していたころでした。テープレコーダーの開発に取り組んだものの、なかなか進まず、電気炊飯器をはじめ、電気座ぶとんなどいろいろなものに手を出していました。もっとも、電気炊飯器といっても、木のおひつの底にアルミの電極をつけただけというしろものです。この炊飯器は、うまくいけばおいしいご飯が炊けるはずでしたが、実際に試してみると思うようにいかず、ソニーの失敗第一号になりました。そんなことをしていたので、私も本田さんの発想に感心したのかもしれません。
世界で二番目のトランジスタラジオを商品化して、世間にソニーの名まえが知られだしたころです。本田さんが、若い人を三、四人連れて、エンジンの点火技術のことで、ソニーの本社を訪ねてこられました。エンジンを点火するのに、トランジスタ(半導体)が使えないかという相談でした。
私自身も、「いずれ将来は、エンジンの電気まわりは半導体がコントロールするようになるだろう。これは、私のほうの〝飯のタネ〟にもなる」と考え、実際に半導体を使ったエレクトロニクスの着火方式のエンジンを組み立て、そのデータを本田さんに提供したりしました。
1959年に、ソニーがトリニトロン方式のポータブルテレビを開発したときのことです。五インチのこのテレビは、世界ではじめての小型テレビでした。 せっかく、どこへでも持っていける小型テレビをつくったのですが、このテレビにはひとつ問題がありました。それは、電源の問題で、当時は、電池などもまだいいものがありませんでしたから、コンセントのないところでは使えなかったのです。ですから、〝ポータブル〟と銘打ってはいるものの、そのままでは、どこへでも持っていくというわけにはいかなかったのです。 そのころ、本田さんのところでは、小さなエンジンでまわす小型発電機を手がけていました。テレビといっしょに持ち運べる小さな発電機があれば、とりあえず電源の問題は解決できます。そこで、本田さんのところに、小型発電機の供給をお願いしました。もっともテレビ用には、発電機のたてる音ができるだけ小さくなければいけないなど、こちらからも注文をつけましたが、本田さんのほうでも、それに応えてくれました。
「技術Driven」ではなく、「つくりたいものDriven」
- 技術の専門家ではなく、素人だった
技術者として、本田さんと私とのあいだに共通していたのは、ふたりとも、厳密にいえば技術の専門家ではなく、ある意味で〝素人〟だったということでしょう。
- 技術を生かして何かをするのではなく、つくりたいものから考える
- 人のマネが嫌いで、今までにないものを作ろうとする
私も本田さんも、この技術があるから、それを生かして何かしようなどということは、まずしませんでした。最初にあるのは、こういうものをこしらえたい、という目的、目標なのです。それも、ふたりとも人真似が嫌いですから、いままでにないものをつくろうと、いきなり大きな目標を立ててしまいます。この目標があって、さあ、それを実現するためにどうしたらいいか、ということになります。この技術はどうか、あの技術はどうか、使えるものがなければ、自分で工夫しよう、というように、すでにある技術や手法にはこだわらず、とにかく目標に合ったものを探していく――そんなやり方を、私も本田さんもしていました。
たとえば、ソニーがテープレコーダーを開発するときなど、最初は何もわかっていませんでした。磁気録音機をつくろうと思いたったものの、わかっているのは、ごくごく原理的な部分だけで、テープひとつをとってみても、材料もなければ、磁気材料の塗り方もわからない、そんな素人集団だったのです。
- 高い目標設定と、その目的に対する執着の強さ
本田さんも私も、目的を達成しようという執念がひじょうに強い。目的のためには、どんなに無茶苦茶に見える手法であろうと、取り入れられるものはなんでも取り入れるのです。その意味で、技術的には専門家でも玄人でもなく、まったくの〝素人〟なのです。 しかし、〝素人〟がこうして、ひとつひとつ苦労して自分自身の手でつくりあげていくからこそ、人真似でないものができるし、人が真似をできないものがつくれるのです。この〝素人〟という点では、本田さんも私も、まったく同じだったと思います。
たとえば、一九四九年に、ソニーではじめてテープレコーダーをつくったとき、「いいものをつくれば、値段なんか関係ない。かならず売れる」という信念のようなものが私にはありました。しかし、実際に「G型」という十六万円のものを売り出したところ、最初はまったく売れませんでした。あちこちに持っていって、デモンストレーションしてみせるのですが、みんな「これが私の声ですか」と驚くだけで、すこしも買ってくれなかったのです。 売れたのは、八重洲のおでんやさんが一台と、最高裁判所が二十台のそれだけです。裁判所への売り込みは、当時速記者が不足していたので、かならずテープレコーダーが役立つという見込みがあったからですが、「テープに録音されたものに証拠性があるかどうか」ということが問題になったりして、購入を決めてもらうまでに、けっこう苦労しました。 これではいけないと、もっと軽くて安いテープレコーダーを急きょ開発して、今度は学校に売り込んだわけです。当時は、小学校の理科教材費が年間五万円くらいでした。新しい小型のテープレコーダーが、「G型」の半分の八万円ほどでしたが、教育熱心な日本のこと、これがじゃんじゃん売れ、たちまち全国の小学校の三分の一が買ってくれたので、会社の資金ぐりがいっきょにラクになり、開発費も豊富に出せるようになったのです。 こうした体験から、私もマーケティングのたいせつさを悟りました
需要があるからつくるというのはメーカーではない。メーカーはパイオニアである以上は、あくまでも需要をつくり出すものである。だから未知にいどんでいるはずだ。未知な製品を大衆に聞いて歩いたって答えが出っこないではないか。
その一番いい例はソニーである。ソニーの社長がよくいっているが、アメリカでトランジスタができたときに、トランジスタなんてものは補聴器にしか使えないだろうといった。つまり、ラジオは一軒に一つあればいいんだという考え方なのだ。あのアメリカのようにマーケッティングをうんとやって進んでいるところでさえ間違えている。それをソニーは一軒に一つのものを一人に一つつくって、アメリカのあの完璧だといわれる模範的な市場調査をひっくり返した。われわれは、市場調査というものをもう一ぺん考え直さなければならない。
一九五二年、トランジスタの製造特許を持っている、アメリカのウエスタン・エレクトリック社が特許を公開してもいいという話が舞い込んできたので、トランジスタの開発に踏みきったのです。トランジスタのことはほとんど知りませんでしたが、当時、世界でもトランジスタの研究を手がけている人はあまりいませんでした。また、トランジスタの製造がむずかしく、一般向けの商品には使えないと思われていたのですが、それならば、製品化の一番乗りをしてやろうと考えたわけです。トランジスタ開発は、われながら、大胆な決断だったと思いますが、まさに〝素人〟だからできたことでした。 このとき、ウエスタン・エレクトリック社の人は、補聴器をやれとアドバイスをしてくれました。逆にいえば、補聴器ぐらいしかモノにならないだろうというわけですが、私は、やるならラジオしかないと思っていました。補聴器ができるなら、ラジオもできるだろう、ラジオができるなら、テレビもできるだろう、と考えたのです。もし、私がそのときトランジスタのことをよく知っていたら、おそらくこんなことは考えず、最初からトランジスタはあきらめていたでしょう。
ソニーがテレビに取り組んだときも、トランジスタでやるのだと、私は勝手に決め込んでいました。そのころ、テレビは真空管を使ったものしかありませんでしたが、真空管でやる気など、最初からなかったのです。ラジオやテレビをつくっているのに、真空管の工場を持っていなかったのはソニーだけだったのです。とにかく、テレビのことをよく知らないくせに、ラジオで成功していましたから、テレビも簡単にできるだろう、くらいにしか思っていなかったのです。 こうして、論理も何もなく直観でトランジスタにとびついたのですが、ラジオで使っていたゲルマニウムのトランジスタでは、テレビの大きな出力には間に合わず、たいへんな苦労をしました。結局、シリコンのトランジスタを開発し、最初はクロマトロン方式でやったのですが、これは失敗しました。 直観で動いていると、こうしたことも起こりますが、この失敗がのちのトリニトロン方式の成功につながりますし、このときの苦労のおかげで、日本の半導体技術も進んだと思っていますから、直観に頼るのも悪いことではありません。
私がトランジスタの開発に踏みきったのも、じつをいえば、そのころテープレコーダーのテープの開発が一段落し、五十名ほどいた技術者をどうするかという問題をかかえていたからこそなのです。みな大学や専門学校を卒業した高学歴社員で、彼らにしかるべき地位を与えるのがそのころの常識だったので、その悩みで頭がいっぱいでした。そんなとき、トランジスタという新しい技術開発の目標に飛びついたのです。
経営については素人同然、名参謀がいたから成り立った
ふたりとも、経営についてはまったくの素人です。経営者としての本田さんははずれているというか、事業家としての資質は、もうゼロといってもいいでしょう。
私も、会社を大きくしようとか、カネを儲けようという意識はあまりありませんが、本田さんにくらべれば、まだすこしはあります。しかし、本田さんはまったくのゼロで、とにかく裏も表もないのです。
あるのは「こういうものをつくりたい」という目的だけ。 本田さんの頭には、とにかくそれしかなく、それ以外の経営だのなんだのといったことは、いっさいなかったようでした。
社長時代、商売のためには、お得意さんをまわって頭を下げるということぐらいは、もちろんやっていましたが、それはやはり、本田さんのやりたいことではなかったでしょう。完全なエンジンをつくるとか、いいレーサーを育てたいなど、自分のやりたいことだけをやっていたかった、というのが本田さんの本心だったろうと、私には思えるのです。ですから、バランスシートなども、本田さんは一回も見たことがないと思います。
ふたりとも経営者としては失格だったのですが、ご存じのように、それぞれ藤沢武夫、盛田昭夫といういい相手がいたからこそ、ここまでやってこられたわけです。
ほとんど顔を出さず、ハンコから何から会社のことはすべて藤沢さんにまかせておいたというのは有名な話ですが、私も、そろばん勘定などめんどうなことは、すべて盛田君がやってくれました。自分の夢を実現することだけを考えて、一生懸命やっていればいい。そういう状態をつくってくれる人たちに恵まれていたという点で、私たちふたりはほんとうに幸せだったと思います。
私は作ることは自分で一生懸命作った。ところが売るとなるとからきしだめだ。売るのじゃなく、くれてやっちゃうようなもの。私の性に合わないんだね。それじゃだめだというので友人に、なんとか金を回収するのがうまいような人はいねえのかと頼みこんだ。そこで商売人はいるよ、と紹介されたのが藤沢武夫副社長だ。東京で初めて会った。いろいろ話しているうちに僕にないものを持っている。私しゃもともと自分と同じような人間とは組まない。そこでこの人ならと惚れこんだ。すぐにウチにきてくれと頼みこんだが相手も商売をやっていたしね。
ヨーロッパでレースを見て度肝を抜かれ、世界初の発明へ
技術視察のためにはじめてヨーロッパに行った本田さんは、マン島のレースを実際に見て、それこそド肝を抜かれてしまうくらい、びっくりしたそうです。 このときの話は、よく本田さんから聞かされましたが、なにしろ、走っている車の迫力が、日本のオートバイとはまったく違うというのです。おそらく出場宣言をしたときの本田さんは、多少技術の差はあっても、なんとかなるだろうくらいにしか考えていなかったでしょう。しかし、ドイツのNSUにしても、イタリアのジレラにしても、日本のとは比較にならないほどの馬力で走っていた。とにかく、技術的に格段の違いがあったのです。それを自分の目で実際に確かめて、さすがの本田さんも、自分の考えていたエンジンなんかじゃ、とても太刀打ちできない、TTレースで上位につけるどころか、出場さえ夢物語でしかない、と強い衝撃を受けたようです。 そのショックのあまり、「俺は、えらいことを宣言してしまったものだ。この宣言が、いつになったら実現できることやら」と、ほんとうに心細くなったそうです。
本田さんが出した結論が、エンジンの回転数を上げるということでした。それも、それまでオートバイのエンジンは、三〇〇〇回転ぐらい、最高でもせいぜい四〇〇〇回転ぐらいだったのを、八〇〇〇回転とか一〇〇〇〇回転にしようというのです。 これは、当時のオートバイ技術の常識からは、およそかけ離れたものでした。世界で、このようなことをやっていた人はだれもいません。当然、本田さんのところの技術者は、「そんなことは、夢にもできっこない」と、みんな大反対です。
私もそうですが、本田さんもかなりへそ曲がりのところがあって、周囲から「できっこない」と言われると、「それならやってみようじゃないか」と、〝その気〟になってしまう面があります。このときもそうで、何がなんでも八〇〇〇回転のエンジンをつくるのだと、本田さんは技術者たちにはっぱをかけ、実際につくり上げてしまうのです。
車のエンジンというのは、最初につくられてから百年ほどたっていても、基本的なところはほとんど変わっていません。それをまったく違った発想からアプローチし、世界のどこを探してもない、まったく新しいエンジンをつくり出していったのが、本田さんだったのです。たんに、改良して性能をよくしたという次元とはまったく違うレベルの仕事です。
もし、このマン島レースでのショックがなければ、本田さんは、ただの〝ちょっとおもしろいオートバイ屋のおやじ〟で終わっていたかもしれません。少なくとも、その後の本田さん自身の技術開発への取り組み方や、会社の雰囲気などを見ていると、このショックが大きな起爆剤になったことは否定できないでしょう。
日本は「コピーして改善」が得意
もともと、日本の産業界というのは、外国からモノを持ってきては、それを見本に同じものをつくりだす、ということから始まっていて、いまでも、それが半ば体質のようになっています。新しい技術にしても、ひとつの会社が新しいものをつくり出すと、それまで無理だ、不可能だと言っていた他社も、すぐ同じものをつくるようになります。そういうところは、日本人は上手なのです。
私のところでトランジスタラジオをつくったときも、これは日本で初めてのものなので、しばらくのあいだは、ソニーだけしかつくっていませんでした。ソニーの独占状態です。ところが、数年もたつと、あっちでもこっちでもトランジスタラジオをつくり始め、たちまち競争状態です。べつに企業秘密を盗むとか、そういうことをしなくても、ひとつの会社ができたことは、他の会社もすぐできるようになるというのが、日本のおもしろいところです。
「完全なエンジン」を目指してCVCCの発明
高速回転エンジンでオートバイをまったく違ったものにしてしまったように、CVCCも、それまでの自動車のエンジンの概念をまったく変えてしまうものだった、ということです。このことは、いくら声を大にして強調してもいいと思います。
完全なエンジンをつくるためには、いろいろなアプローチの仕方があるのでしょうが、本田さんが取り組んだのは、いかにして完全燃焼させるか、ということでした。ガソリンを完全燃焼させることができれば、排気ガスの問題もなくなりますし、燃費も低くおさえることができます。
大量に作って「捨てる」ことが重要
何千でもいいから、お釈迦になってもいいから、作ることだね。もったいないようだけど、捨てることが、一番巧妙な方法だね。捨てることを惜しんでいる奴は、いつまでたってもできないね。 物を苦労して作った奴ほど強い奴はないね。物を作ったことがない奴は、皆だめだね。
本田さんの著書に、『私の手が語る』というタイトルのものがありますが、本田さんの左手が傷だらけだったことは、ご存じの人も多いでしょう。右手は、ハンマーを持ってたたくほうですから、こちらはまったくけがをしていない、きれいなままです。それに対して左手のほうは、ハンマーにたたかれて、けがをしていない指がない。本田さんによると、取れそうになった指をつないであるのだそうです。
大体、僕の人生は、いわゆる見たり、聞いたり、試したりで、それを総合して、こうあるべきだということで進んできた。もしわからないようなことがあって、そのために本を読むんだったら、そのヒマに人に聞くことにしている。五〇〇ページの本を読んでも、必要なのは一ページくらいだ。それを探しだすような非能率なことはしない。うちにも大学出はいくらもいるし、その道の専門家に課題をだして聞いた方が早い。そして、それを自分のいままでの経験とミックスして、これならイケるということでやっているだけで、世の中の人は、本田宗一郎は、ピンからキリまでやっていると思っているようだが、とんでもない。
- 「試す」が欠落している技術者が多い
人生は見たり、聞いたり、試したりの三つの知恵でまとまっているが、その中で一番大切なのは試したりであると僕は思う。ところが世の中の技術屋というもの、見たり、聞いたりが多くて、試したりがほとんどない。僕は見たり聞いたりするが、それ以上に試すことをやっている。その代り失敗も多い。ありふれたことだけど、失敗と成功はうらはらになっている。みんな失敗をいとうもんだから、成功のチャンスも少ない。本田が伸びた伸びたって、最近みんなが不思議がるが、タネを明せばこれ以外にない。やっているだけ知っているということだ。その点、僕自身が、いくらかよその技術屋よりも試しているから意志が強い。本に書いてあるから大丈夫やれといって指示するのと、おれがやってみて大丈夫だったからやれるというのとでは、やる方も全然感じが違う。安心してやれる。だから僕は、試すことが一番大切だとつくづく思う。(『ざっくばらん』より)
井深 私たち二人とも同じだけれども、いつどこで決断したとかいう言葉を使うけど、そんなことはないね。相当無茶な目標は立てるけれども、やってみてだめだったらあっさりやめるから、我々は合理的だと考えているんだけどね。 本田 やはり具体的なものを引っ下げて決断する。これが工場生産の基本じゃないか。
ものをつくらないのは実業じゃない
数年まえ、小山五郎さんにお目にかかったとき、「ものをつくらないのは実業じゃない」と、あえて苦言を呈したところ、「まったくそのとおりだ」という返事が小山さんからかえってきました。
会社が株なんかで儲けたり、土地の値上がりで儲けたりするのはおかしいと、昔から言っていました。 ものをつくるということに、徹底的にこだわったのが、本田さんだったといっていいでしょう。
僕は、四輪各社の決算書をみるたびに、銀行から安い金利で金を借りてきて、高い金利で車を月賦で売って、そのサヤが利潤として大きく計上されているんだなあといつも思う。七〇万円も八〇万円もする自動車だから、一〇〇%キャッシュで売るのは無理かも知れないが、金利のサヤが儲けの主要な部分になるような企業のあり方そのものが、僕のような神経には耐えられない。自動車工場を経営していても、技術とアイデアで儲けないで、金融操作で儲けているのでは、どうみても自動車会社とはいえない。 そういう会社が、日本の一流企業としてチヤホヤされ、自分でもうぬぼれているところに日本の企業の弱さがある。土地を売って儲けても同じ儲けには違いないが、何でもいいから儲けさえすればいいというのでは、折角の看板が泣こうというものである。(本田宗一郎氏著『ざっくばらん』一九六〇年刊より)
私や本田さんのように、ものをつくることに長年たずさわってきた者にとっては、あのバブルの時代とは、あほらしいのひとことに尽きます。バブル、つまり「あぶく」とはよくも言ったもので、紙切れをいくら売り買いしていても、何も生まれてはきません。
大衆に通じる商品を生み出すことにこそ価値がある
当時、私がつくっていたものは、ほとんどが軍と放送局と 逓信省(いまの郵政省)に納めるものです。そのころは、民間の放送局などはありませんでしたから、いってみれば、お役所だけを相手にしていたのです。当時は、統制経済のもとですから、国の了承を得ないかぎり、勝手に商品をつくることもできませんでした。外国からの放送を受信できる短波受信機などは、一般の人が持つことを禁止されていたのです。すべては、軍を中心に動いていた時代です。
この軍などに納める官需の品物をつくっていて、おかしいと思ったことがあります。それは、軍やお役所からもらった仕様書に合ったものさえこしらえていれば、それでいいということでした。その仕様書は、細かいところまで厳しく決められていましたが、私たちが見ると、ここを変えれば、もっといいものができるのに、ということがありました。しかし、それをやってしまうと、仕様書からはずれてしまいますから、その製品を買ってもらえなくなります。せっかくつくったものがムダになっては、私たちも困るので、結局は、仕様書どおりにやるしかありませんでした。 つまり、創意工夫をしてはいけないというわけで、技術者としては、こんなつまらない仕事はありませんでした。これでは、いいものができるわけがないと、いつも感じていたものです。
いくらいい技術を開発する力を持っていても、その技術を軍事用とか宇宙用とかの国家目的にばかり使っていると、産業界はそれだけで利潤が得られるので、競争力を発揮しなくなり、やがては技術開発力も衰えてしまうというわけです。要するに、国をスポンサーにして、国の保護を受けているだけではだめなのです。
井深 やはり大衆に通ずる商品を生みだすところに価値があると思うね。役所仕事や軍の仕事なんて本物の商品じゃない。まして実業じゃないという信念を持っている。玄人相手からは本当に親切な商品は生まれないよ。素人に使える一般商品は、なんの知識もない人が使うのだから、まず親切さを考えなければならないし、仕様書で作るものより配慮が必要になるから、競争も起きるし、はげみにもなるんですよ。
本田 時代というものはどう変るか知らないが、企業家としては同じことじゃないか。やはり大衆自体が支持する商品というものが絶対条件だな。それが一つでも欠けたら企業はだめだと思う。
若者に対するリスペクト
本田さんは、そういう私とはまったく違った目で、若い人たちを見ていたようです。「いまの若い人というのは、けっしてばかにしたものではない」というのが、本田さんの持論でした。 自分たちが知っている古いことを、若い人が知らないからといって、ばかにしてはいけない。むしろ、古いことにとらわれているほうがおかしいのだ、というのです。本田さんほど、過去のことにとらわれるのを嫌った人はいないといってもいいでしょう。
僕が一番感じたことは、終戦直前僕の月給は百五十円だった。戦後、世の中が急激に変わって、うちの子供に小遣いを十円やっても機嫌が悪い。どうしても百円くれといってきかない。ところが百円というと、こっちにしてみれば、ついこの間まで貰っていた月給の大半に当るわけだから、心中穏やかではない。そんな無茶なことをいうもんじゃないとたしなめても、子供は「そんなこといったって十円じゃ何も買えないよ」と反論してくる。 そこで僕は考えた。大人というやつは、うんと進歩的にものを考えても、以前はこうだったという観念が根強く残っている。子供には過去がないから、そのときの相場でモノをいう。そしてそれが一番正しい評価であることが多い。
恥を恐れず、ざっくばらんに聞く力
僕の特徴は、ざっくばらんに人に聞くことができるということではないかと思う。つまり、学校にいっていないということをハッキリ看板にしているから、知らなくても不思議はない。だから、こだわらずに、誰にでも楽に聞ける。これがなまじっか学校にいっていると、こんなことも知らないんでは誰かに笑われると思うから、裸になって人に聞けない。そこで無理をする。人に聞けばすぐにつかめるものが、なかなかつかめない。こんな不経済なことはない。
伝統を嫌い、製品の品質だけにこだわる
本田技研がなぜここまで伸びたかといえば、本田技研には伝統がなかったということがいえると思う。過去がないから未来しかない。
だから僕は、よその会社のように、やれ五十年とか三十年の歴史と自慢するような伝統は持たせたくない。強いて伝統という言葉を使うならば、伝統のない伝統、「日に新た」という伝統を残したい。
年数が古いほどいいという意見には承服できない。(中略)誇りうるものは、伝統でも会社の大きさでもない。工場の立派さでもない。品物自体である。それを忘れては、話にならない。
最初から世界一なんて思いもしなかった
僕たちの時代は、終戦直後でしたからね。こんな会社にしようかといった大それた理想はありゃしない。なんといっても昭和二十年から二、三年は食うのに一生懸命だった。私も御多分にもれずに食うのに困ってなにかをやらなければならないという気持だったからね。
最初から世界一なんて思いもしなかった。せいぜいよくてでっかい企業になればいいなあと思ったぐらいだよ。はじめはこれをやるといった目的のためにやったのじゃない。どんな企業でも同様だと思う。それが一歩一歩進んでいくうちに欲が出てだんだんと夢も大きくなる。つまり欲の積み重ねが、ここまできたというのが現実ですよ。
そのころは世界一になろうなんて思わなかった。そんなこと思ったらつぶれていただろう。
私も全く同じでした。長野県の須坂で戦時中からの仕事だった日本測定器にいて終戦となったわけだが、この時の仲間が七、八人、なんとか東京で旗揚げしよう、といって上京してきた。
しかし、いざ東京に出てきて当時の日本橋白木屋の三階の一室を借りてはみたものの、なにをやっていいかわからなかった。皆んなでしるこ屋でもやるか、といっていたものだ。白木屋の上から周囲をみていると、あのへんは空地ばかり、そこでベビーゴルフ屋でもやるかといったけれども、どうも私は馴れない仕事には手を出せないから、やはり電気屋は電気屋の仕事が一番ということになって東京通信研究所の看板をかかげたのが昭和二十年の九月でしたよ。
ただ、本田さんも同じだと思うが、人がやるだろうということをやっていたんじゃ勝ち目はない。資本金も設備もないし、ないないづくしのところでは、大手が復旧してきたら必ず一も二もなくやられてしまう。大手がやらんことだけをやろうと思った。
当時、電気パン焼き器というのをネコもシャクシも作っていたんだ。木の箱に両方へ電極を通して、その中へメリケン粉をおいておくとパンが焼けるというやつですよ。そこで私どもは、面白くないから、一つご飯をたこうというわけで、いまの電気釜の前身ですね。しかし、材料なんかなんにもない。おひつを買ってきて、おひつの底へアルミの渦巻き型の電極をつけて、そこへいきなりといだお米を入れて電気を通すと、うまくいけばおいしいご飯がたけるはずだった。それもたき上がると自動的にスイッチが切れて、保温も可能だった。ところが、一定しないんだな(笑)。水の状態のままだったり、ボロボロのめしになったりしてね。これは白木屋からも資金を出して貰って作ってはみたが、とても安定しないのでとうとうやめちゃった。この炊飯器はソニーの失敗作第一号だ。
人材の育成ということをしているヒマもなかった。 本田 いまになってお互いに人材の育成なんていっているけれどね。食うに困っていたのだから仕事をやるしかなかったからな。 井深 人間というのは仕事さえさせれば、その仕事を通して育ってくる。育たないのは脱落していくものだ。 本田 仕事していれば自然に覚えるものだよ。 井深 私のとこで人集めをする目安は、まず仕事が好きな人であることが第一条件ですよ。
本田 いまだから、こうして落着いて話をしていられるが、みんながみんなズバリと当たったわけじゃない。とくにオートバイなんてのは雨が降ったら売れない商品だった。六月の雨降りとか冬の寒いときなんか哀れなものだった。こんな商売はじめてえらいことやったと思ったね。雨が降ったら副社長とたまった商品をどうするか頭を抱えましたよ。まだまだ輸出なんてとてもとても考えられなかった。
ウチでも輸出をはじめたのはトランジスタラジオができてからだった。トランジスタは世界で二番目だった。たまたま盛田君がオランダへ行ってフィリップスを見学したが、オランダという小国にありながら世界中に進出して国内市場よりも世界のマーケットが大きかった。そこで日本はこれだと悟って帰国しましてね。それから輸出をはじめたわけです。
組織は戦略に従う
井深 私は組織というのは反対で、組織は仕事の邪魔をするものである、というのが私の考え方です。まず仕事が最初にきて、その仕事を誰にさせたらいいのか、ということで決まるんです。組織があってやるのは役所仕事ですよ。仕事の内容はどんどん変わってくるんですからね。
世界と戦うために自社のブランドを大切にした
本田 うちの副社長の藤沢がかねがねいっているが、世界へ進出するには自分のブランドというものを大事にしなければいけない。これが第一の条件だということをいっている。われわれでもアメリカの商事会社からバイヤーブランドで何万台買いたいといった注文があった。本当はのどから手が出るほど受けたかったが、我慢した。金がなくてしようがなかったが、いま専務の川島(喜八郎氏・後の本田技研工業会長)を米国へ派遣して市場開拓したわけだ。この努力が世界にHONDAのブランドを確立したゆえんで大成功だったね。
井深 全く同じだ。アメリカの時計会社からトランジスタラジオを扱いたいといって十万台を半金支払い、彼らのブランドをつける条件で発注してきた。米国にいた盛田君からテレックスが入って下請け仕事は断った、という。当時は月産五千台程度だったから触手が動きましたがね。ビデオテープのときは一時期GEのマークをやったことがありますが、うまくいきませんでしたね。
人の力に頼るくらいなら、苦しくても自分でやる とにかく、本田さんも私も、何か大きなものの力に頼るのは嫌いということでは、まったく共通していましたから、それぞれの会社の歴史でも同じようなことを体験しています。
本田さんが戦後、再出発をしようとしたとき、トヨタの下請けをやらないかという話を断わっています。本田さんがやっていた東海精機という会社は、トヨタも出資していたのですが、戦後、軍の仕事もなくなって、トヨタの自動車部品を手伝わないかという話があったとき、「トヨタの下請けでは、自分の意志でどんどんコトを進めるわけにはいかない」からと、東海精機という会社そのものを手放してしまったのです。大樹の下で安楽にやることを、本田さんは徹底的に嫌っていました。