歴史学者・哲学者のデュラント夫妻が歴史から学べる法則を記した本
生物学的法則
- 生物学的原則は、歴史上ずっと変わらない
歴史の根本的教訓として私たちが学ぶのは、生物学の法則にほかならない。
- 競争
歴史から得られる生物学的教訓は、まず、人生は競争だということである。
- 競争の原則は人間の集団、つまり国にも当てはまる
文明化した人間は適正な法の手続きのもとに相手を破滅させる。 協力も確かに存在し、社会の発展とともに強化される。 しかし、それは協力が競争のための手段であり、競争の一形態でもあるからだ。 私たちは他の集団――家族、コミュニティ、クラブ、教会、政党、「人種」、国家――との競争で強い力が発揮できるよう集団内で協力する。 他と競う集団には他と競う個人と同じ特性がみられる。それは所有欲や好戦性、排他性、自尊心である。
- 淘汰
歴史から学べる第二の生物学的教訓は、人生は淘汰だということである。
人は生まれながらにして自由かつ平等の権利を奪われている。 身体面でも精神面でも遺伝に大きく左右され、集団の慣習や伝統に縛られている。 健康状態や体力、知的能力や性質といった面で、生まれつき備えているものは人によって大きく異なる。 自然は、淘汰や進化に必要な材料として差異を歓迎している。
人は生まれながらにして不平等で、文明が複雑になるにつれ不平等は深刻化する。 遺伝的な不平等が社会的かつ人工的な不平等を生みだす。 発明、発見をするのは常に並外れた能力をもつ者であり、強い者はさらに強く、弱い者は相対的にさらに弱くなる。
- 子孫繁栄
第三の生物学的教訓は、生き物は子孫を増やさなければならないということである。
繁殖することのできない生き物は、自然にとって用無しである。質のよいものを選択するための前提条件として自然は量を重視する。多数の子が競い合い、競争に勝ったわずかなものが生き残るのがよいわけだ。
人口が増えすぎて食糧不足になったとき、自然はそのバランスを回復するために三つの策を用意している。それは、飢饉、疫病、戦争である。
人種
- 人種による優劣を様々な論理で主張する人もいるが、歴史を学ぶと、人種による優劣はないことがわかる。
- 人種対立を解消するには教育しか無い。
歴史は色盲なのだ。肌の色に関係なく、文明は(条件のよい環境で)築かれるのである。
「人種」間の対立は、出身の違いに根ざしていることもあるが、身につけた文化――言語や服装、習慣、モラル、宗教――の違いから生じるケースがほとんどだろう。 このような対立を解消するには教育を普及させるしかない。 歴史を学ぶと、文明は協力によって生まれるものであり、ほぼすべての人種が文明に貢献してきたことがわかる。 文明は人類共通の遺産であり負債である。教育を受けた人はすべての人々を、いかに社会的地位が低かろうとも、文明に貢献する創造的な集団の一つを代表する人物として扱うはずである。
各個人の性質
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歴史を見ると、様々な人間が存在することに意味があることが分かる
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革新派だけではなく保守派こそ貴重な存在
変革に抵抗する保守的な人々は、変革を推し進めようとする革新的な人々と同じくらい貴重な存在である――ひょっとしたら、接ぎ木の接ぎ穂より台木のほうが重要なように、保守派のほうが大切かもしれない。 新しいアイデアに耳を傾けるのはよいことである。 なかには有用なアイデアがあるかもしれない。 しかし、新しいアイデアが反対にあって、ひどい言葉を浴びせられるのもよいことなのだ。 これは試練であり、新しいものが人類に受け入れられるためには、これを乗り越えなければならない。 高齢者が若者に抵抗し、若者が高齢者を刺激するのもよいことだ。 この緊張関係が、男女間、階級間の対立と同じように、創造的な強い力を生みだし、進歩を促す。そして人々は気づかないうちに団結して行動するのである。
モラル
- モラルは時代によって変わる
好戦性、残忍性、強欲さ、強い性欲を備えていれば、生存競争を有利に戦えた。 すべての悪徳が、かつては徳――個人、家族、集団の存続に有益な資質――とされた。 人間の罪深い行いは、人間の堕落の印ではなく興隆の名残なのかもしれない。
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科学の発展によってモラルが変わった例
- 農耕時代は子供が財産だったが、産業革命以降は子供は財産ではなくなったため、結婚年齢が上がった
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歴史には悲惨な出来事が多いが、その裏には記録されないだけの普通の幸福が大量に存在することを忘れてはならない
歴史家は、普段は起こらないような出来事のほうが興味深いので、そちらを記録する。 記録からもれてしまった人々が全員歴史書に載り、人数に見合ったページ数を割り当てられれば、私たちは退屈しながらも、もっと正しく人間の過去の姿を知ることができるだろう。
宗教
- 歴史上、モラルを保つには宗教が必要
モラルを保つには宗教が必要だ。 宗教の助けを借りずに高いモラルを維持していた国は、歴史の中に見当たらない。
- 歴史を見ると、宗教上の善良さではなく適応能力こそが生存に有利
神を信じることを、歴史は支持しているだろうか。 神という語が自然のもつ豊かな創造力ではなく、知的で慈愛に満ちた至高の存在を意味しているなら、残念ながら答えはノーである。 生物学同様、歴史とは基本的には適者が生き残る自然淘汰であり、善良だからといって有利に扱われるわけではなく、多数の不運に見舞われ、最後は生存能力が試される。
経済
- お金を管理できる人はすべてを管理する
歴史からはこんなこともわかる。 「人を管理できる人は、ものしか管理できない人を管理する。お金を管理できる人はすべてを管理する」。
そういうわけで銀行家は、農業、工業、貿易の動向を探り、資金を流し、私たちのお金に2倍、3倍の働きをさせ、融資、金利、事業をコントロールし、大きなリスクを冒して大きな儲けを得、経済ピラミッドの頂点に上り詰める。 フィレンツェのメディチ家からアウグスブルクのフッガー家、パリ、ロンドンのロスチャイルド家、ニューヨークのモルガン家に至るまで、銀行家は国政に参与し、戦争のための資金を提供し、教皇に融通し、時おり革命の火つけ役となった。 価格変動について研究してきた銀行家は、価格とは上昇していくものであり、お金を退蔵するのは賢明なことではないと知っている。 彼らの強大な力の秘密はこのあたりにあるのだろう。
- 経済システムは必ず「人の利益追求欲」に頼る必要がある
まちがいなく言えるのは、どんな経済システムでも、いつかは個人や集団の生産性を高めるために何らかの形で利益追求欲に頼らなければならないということである。 奴隷制度、警察による監視、イデオロギーへの傾倒は、非生産的で、コストが高すぎ、一時的であることが判明している。 通常、人は生産能力に基づいて評価される――例外は戦時で、このときは破壊能力に基づいて階級が決まる。
- 経済の歴史は以下を繰り返している
- 人々の利益追求欲を利用して発展(自由経済)
- 生産能力が高い人にどんどん富が集中して、格差が広がる
- 貧しい人の数がどんどん増え、貧しい人の数の力が強くなる
- 貧しい人による革命が起こる または 革命を避けるために法律を定めて富を再分配する のどちらかが起こる
進歩的な社会では富の集中が進むと、多数の貧しい人々の数の力が、少数の富める人々の能力の強さに匹敵するようになる。 そして、この不安定な均衡状態が危機的状況を生みだし、法律を定めて富を再配分するという対応がなされることもあれば、革命が起きてさらに貧困が広がることもある。
- アテネの事例に学んだアメリカ
紀元前五九四年にアテネは「貧富の差がかつてないほど広がって危険な状況に陥り、騒乱を避けるには……独裁に頼るしかないように思われた」。 年々状況が悪化している――有産階級が政治の実権を握り、腐敗した裁判所は常に貧困層に不利な判決を下した――と感じた貧困層は、反乱を起こす相談を始めた。 自分たちの財産を脅かそうとする動きに腹を立てた富裕層は、力で身を守る準備を始めた。
しかし、ここで良識がはたらいた。 貴族の出で貿易に従事していたソロンが穏健派に推されてアルコンになったのだ。 彼は貨幣価値を下げてすべての債務者の負担を軽減した(彼自身は債権者だった)。 個人の負債を減額し、債務奴隷を禁じ、未払いの税金や利息を帳消しにした。 累進税を導入して金持ちには貧しい者の12倍の税を支払わせた。裁判所を再編し、市民に開かれた場とした。 アテネのために戦って亡くなった者の息子には政府から養育費と教育費が支給された。 これらの改革に対して、富裕層は財産没収に等しいと反対した。 過激派は土地の再配分がなされていないと抗議した。 しかし、ソロンの改革がアテネを革命から守ったという見方がやがて大勢を占めるようになった。
アメリカは一九三三~一九五二年、一九六〇~一九六五年にソロンの平和的な方法にならった緩やかな富の再配分を行い、国民の怒りを鎮めた。たぶん、誰かが歴史を研究したのだろう。
富の集中はごく自然な避けようのないことで、暴力的、あるいは平和的再配分によってときどき緩和される。この視点からとらえると、経済史とは、富の集中と強制的再配分という収縮・弛緩を繰り返す社会的有機体のゆっくりとした心臓の鼓動であるといえよう。
社会主義
- 社会主義的な実験は歴史上何度も行われている
さまざまな時代にさまざまな国で、社会主義的実験が行われている。
- 戦争で社会主義を維持したローマの事例
実業家がこのままでは破産すると訴えると、ディオクレティアヌスは、異民族が迫っている、個人の自由より集団の自由をまず確保しなければならないと説明した。 彼の社会主義は戦時経済ならではのものであった。 攻撃を恐れる気持ちがこの政策につながったのである。 外から攻撃を受ける可能性が高ければ、市民に認められる自由の度合いは小さくなる。
- 社会主義は平和が続くと保たない (1970年代に本書が書かれた時点)
革命が共産主義的な形となったのは、新しい国が国内の混乱、外からの攻撃という問題をかかえていたからである。 今にも包囲攻撃を受けそうな国の国民なら同じ選択をするはずだ――秩序と安全を回復するまでは個人の自由は脇においておく。
ここでも共産主義は戦時経済ならではのものだった。 共産主義は戦争の恐怖が続けば生き延びるだろう。 だが三〇年ほど平和になると、人間の性質上、共産主義はもたなくなると思われる。
- 資本主義と社会主義は相互に良いところを取り込み、中庸になる
社会主義は資本主義への恐れから自由を拡大し、資本主義は社会主義への恐れから平等をめざしている。東は西、西は東、両者はやがて相まみえる。
政治
- 自由を守るためにルールを作る
人間は自由を愛する。しかし、社会における個人の自由には何らかの規制が必要なことから、自由の第一条件は制限である。無制限に自由を認めると、自由は混乱の中で死んでしまう。
- 貴族制は、特権階級があまりに利己的になったため崩壊した
ごくわずかの者だけに特権と権力が与えられる。利己的で近視眼的な搾取によって人々が苦しめられる。従来のやり方に執着して国の発展を遅らせる。王が慰みにする戦争で人命や財産が失われる。こんな事態を引き起こすと、貴族制はもう終わりだ。
- 歴史は暴力革命を支持しない
ほとんどの場合、革命によってもたらされるものは、革命を起こさなくても徐々に経済が発展すれば手に入れることができるだろう。アメリカは革命なしでも英語圏における支配的勢力になっていただろう。
富は、品物(大半のものは壊れやすい)の蓄積というよりは、生産や交換のための秩序と手段である。そして、紙幣や小切手自体に価値があるわけではなく、人や組織を信頼することでその価値は成立している。したがって、暴力的な革命を起こしても、富を再配分するよりは、かえって富を破壊することになる。土地は再配分されるかもしれない。しかし、人間はもともと不平等にできていることから、再び財産や特権に偏りが生じ、以前の少数者と本質的には同じ性向をもった新たな少数者が権力の座につく。真の革命とは理性を磨き品性を高めることである。真の解放とは一人一人がそれを達成することである。そして、真の革命家は哲学者と聖人である。
- 民主精は歴史上最もマシな政治体制
こうして見てくると、民主制は他のどの政体よりも害が少なく益が多い。 民主制には落とし穴も欠点もあるが、それをしのぐ活力や同志愛を人間に与えてくれた。 思想や科学や事業になくてはならない自由をもたらした。 偏見や階級の壁を打ち破り、世代ごとに、どんな地位や場所からも能力のある者を引きあげてきた。
- 教育の機会均等こそが自然ではなく人類が作ってきた権利
民主制は今、教育の普及と教育期間の長期化、公衆衛生に力を注いでいる。 教育の機会均等を実現できたら社会的平等は本物だと認められるだろう。 人は平等ではあり得ないが、もっと平等に教育機会を得られるようにすることは可能なのである。 人の権利とは、仕事と能力を手にする権利ではない。 それらを手にすることができるよう、適性を探り、高めるためのあらゆる道が開かれている、それが人の権利である。 権利とは神や自然からの贈り物ではない。それは特権であり、その権利を個人に与えることが社会の利益となる。
戦争
- 戦争は常に起きていて、平和が不自然で例外的なこと
戦争は繰り返し起きている。文明が発展しても、民主政治が行われても、戦争は減らない。 記録に残る過去三四二一年のうち、戦争がなかったのはわずか二六八年である。 現在、戦争は人類の競争と自然淘汰の究極の形となっている。 ヘラクレイトスは「戦いは万物の父である」と述べた。 戦争、あるいは競争は、アイデア、発明、制度、国家などあらゆるものが生まれ出る有力な源だということである。 平和は不安定な均衡状態であり、超大国が存在するか、互いの力が釣り合っていないかぎり、平和は保てない。
- 国家は誰にも怒られない
戦争の原因は、個人間の争いの原因と同じである。 貪欲さ、好戦性、自尊心。食糧、土地、物資、燃料、支配への欲求。 国にも私たちと同じ本能があるが、本能を抑制することはない。 人はモラルや法律の制約を受け、戦う代わりに話し合うことで合意する。 生命や財産、法的権利が、国によって基本的には保護されているからである。 ところが国には制約となるものがない。国は強大で、口出しするものを寄せつけないのだ。
発展
- 文明は死なない
文明は死ぬのだろうか。そうとは言えない。ギリシア文明は死んでしまったわけではない。枠組みが失われ、居場所が変わって、広がっただけだ。ギリシア文明は民族の記憶の中で生き続ける。
国は滅びる。古くから開けていた土地が砂漠化する、あるいは別の変化が生じる。元気な男は道具と技術をもち、記憶とともにほかの土地に移る。教育の力でその記憶が深く幅広いものになっていれば、文明もその男とともに移住する。
人類は進歩しているか
- 進歩の定義
まず進歩とは何かを定義するのがよいだろう。 もし、幸福が増すことを進歩とするなら、それは即座に却下されるだろう。 人は不満のかたまりで、何度問題を乗り越えようと、何度理想を実現しようと、何か理由を見つけては文句を言っているからである。 人類や宇宙を是認するに値しないものとしてはねつけるのは密かな喜びである。 平均的な子どもが大人や老賢人より高度に進歩した存在――なぜなら、この三者のなかで最も幸せなのは子どもだから――になるような定義は、ばかげている。 もっと客観的な定義はできないだろうか。ここでは、環境をコントロールする力が増すこと、と定義することにしよう。
- 人類は進歩している
長い寿命が環境のよりよいコントロールを意味するのであれば、人は進歩したことになる。
現代社会から飢えがなくなったのは、実にすばらしいことである。
教育が文明を伝える力であるなら、私たちはまちがいなく進歩している。
現代のいちばんの偉業は、すべての人が高等教育を受けられるよう過去最大の資金と労力の投入が行われていることである。
教育とは、事実やデータ、王の在位期間を頭に詰め込むことではない。社会に出て稼ぐのに必要な準備をすることでもない。知的、道徳的、技術的、美的遺産をできるだけ多くの人に引き渡すこと、それが教育である。それによって、よりよく人生を理解し、コントロールし、彩りを添えて楽しむことが可能になる。
文明が成し遂げた偉業は、国の興亡に関わらず今日まで残っている。 火や灯り、車輪をはじめとする基本的な道具、言語、文字、芸術、歌、農業、家族、子育て、社会組織、道徳、慈善。そして、家族や民族の知恵を次世代に伝えること。 こうしたことが文明の基本的要素であり、古い文明が新しい文明にかわる危険な過渡期にも、これらはしっかりと守られてきた。
大切なのは人が何をしているかである。私たちは自分の人生を意味のあるものにしよう。死後も大切なものとして残る何かを成し遂げよう。幸運な人は亡くなる前に自分の民族の遺産をできるかぎりたくさん集めて、それを子どもに引き渡すだろう。そして最期のときまで、この尽きることのない遺産に感謝する。なぜなら、それは人を育む母であり、私たちの永遠の命であるからだ。