齋藤孝さんが書かれた孤独についての本
ひとりでいることはそれほど苦ではなかった。なぜかと言えば、私はなにより野心に燃えていたからである。
部屋でリラックスするのは孤独ではない
部屋で一人、音楽を聞きながらゆったりとリラックスして過ごすのは、私にいわせれば孤独ではない。 音楽はその旋律に身をゆだねていればいいから、むしろ何も考えないですむ。これは安楽というもので、受動的な行為だ。現に脳科学の研究によれば、音楽を聞いているときにはほとんど脳は働いていないそうである。 つまり私の提案は、一人の時間をリラックスして過ごそう、自分自身を癒そうという主張ではない。もっと自分自身に向き合うような時間、もしくは自分の技量を深めていく時間を持とう。それこそ脳を真っ赤に燃え上がらせる知的活動のひとときは、誰もが持つべき孤独なのだ
単独者たれ
群れて成功した人はいない。
何かを勉強しよう、学ぼうというときには、まず群れから離れて一人で立つ。これが基本姿勢だ。頭のよし悪しや、本をたくさん読んできたかどうかより、単独者になれるかどうかが問われる。
自期力と客観視力を合わせ持つこと
自らに期待する力、これを私は自期力と呼んでいるが、若いときほど「自分はこのまま終わる人間ではない」『他のやつらとは違うんだ」という強い思いがあったりする。私から見てもやや生意気そうなのだから、クラスメイトなど同世代の人間から見れば、プライドが高くて鼻持ちならないタイプに映るだろう。
この(寄るなさわるな)というすごみは、人生の中で誰もが一度は持つ輝きだろう。 その時期には、家族の中にいても単独者になろうとする。しかし年齢が上がるにっれ、大抵はなくしてしまうものだ。 それをどこまで引っ張るか。引っ張り方によっては引きこもってしまい、内圧が高まるというよりも、エネルギーがただ満留してしまうだけになりかねない。 それは問題だが、そうでないなら、この自期力の高さを維持できるのは若さだと思う。私自身は、三十五歳になっても維持していた。 誰にも相手にされていなかったが、そんな年齢になっても、『私の実力はこんなものではない』という自負は人一倍高かった
才能の多球よりもむしろ、自期力が大きいほうが伸びる達分になりうるから、結果的に成功していくというのが順序という気がする。つまり、そのみずから期するものを大きく育てていくような孤独の時間こそが大事なのだ。 ”平凡人を憎む”という言葉を見つけたときには、『この人は不自由な人だなあ。友達もいないだろう』と同情もしたが、同時に、あまりにも自分と似ていて、鏡を見るような思いもあった。もちろんここにはある種の傲慢さがある。しかし、若い時代のそのぐらいの傲慢さは、あっていいものではないだろうか。それによって、自分をじる強さが生まれる。
このときに重要なのは自己客観視力だ。世の中が自分をどう見ているか。世の中から見て自分はどのくらいのポジションに立っているのか。それを正確に見抜くことだ。 主観的な評価はいくらでも甘くすることができる。だが、そこで甘く点をつけてしまうと、『いまの自分は本当の自分ではない』とごまかして客観的に自分を見られなくなる。こうなるともう自分自身を伸ばしていく歯車は回らない。世の中と噛み合わなくなって、せっかくの内圧エネルギーを空回りさせてしまうことになる。 いま認められていないのはしかたがない。そう思っても、中途半端な自分を受け入れるのは苦しいものだ。そんなときの私のとっておきの呪文は、「結果を出せ」という一言だった。この五文字を私は書いて見えるところに貼っておいた。
「いい上司に恵まれたら」や「もしあの大学に受かっていれば」など、へたら・れば)の話は、ついしてみたくなる。 しかし、そうした一種の言い訳は、スポーツや囲碁など勝負の世界では一切通用しない。結果がすべてだからだ。自分の人生も(常に勝負)の意識でいくと、何に対しても襟を正して臨むような覚悟ができる。
仕事はポジションでやるもの
私は仕事というものは基本的にポジションでやるものだと思っている。
仕事を能力でやるもの、才能でやるものと思い込んでいる人は実に多い。だが、たとえば映画やテレビのプロデューサー、広告のプランナーなど偉れの職種であっても、ポジションさえ与えられれば大概の人がこなすはずだ。絶対的な才能がある人も中にはいる。だが、役割を得られれば徐々に経験値は上がり、誰でもそこそこできるようになる。難しいのはむしろそのポジションをつかむまでなのだ。
孤独の時間でやるべきこと
これらは、私が提案したい(自分を検証するための手法)である。孤独の時間にこうした機会を持てば、何かに挑み続けていこうという炎が絶えることはない。
1.内観する
鏡を見る。このとき人は意外に素になって、自分に語りかけたくなるものだ。『少し太ったかな」とか「顔つきが暗いな」など、単純なものから始まって、もう少し慣れてくると、精神面での対話をすることもできる。『本当にやりたいことをやっているだろうか』「いまも二十代のときのような勢いを持ってがんばっているか」というような自分への直接的な問いかけができればかなり上級者だ。そのようなセルフチェックの道具として、鏡というのは決定的に優れたアイテムである。
ココ・シャネルは部屋の中に鏡を置いて暮らしていたそうだ。シャネルは超美人というわけではなかった。チェックするのは、もちろん自分のファッションや容姿も含むだろうが、彼女の場合、鏡を見ることは、自分との対話を意味した。もともと非常に哲学的なものが好きで、内省する読書の時間をすごく大切にしていた。彼女はしばしば孤独の時間を、一人でぼうっとするためではなく、自分を見つめるために使った。
内観法には、自宅でひとりで行う自己内観という方法もある。しかし現実には、日常生活から切り離された完璧な孤独の中、たとえば内観研修所のような特殊な空間が用意されないと、やり遂げることは難しい。フロイトでさえ自分を知るために催眠をかけたぐらいだ。家でちょっと試してみて、ノートでもつければいいという類のものではないのだが、もし個人レベルでやるとするならば、筆記用具を活用することはとても有益だと思う
とりあえず書くことで人は孤独になれる。自然に自分と向き合うことになる。そのステップを終えてから他人と向き合うと、ぐんと中身の濃い話ができる。
2.教養という反射鏡を持つ
教養を磨き、自分の価値を正確に見据えるためには、読書は父かせない。ひとりのときに本を読むというのはごく当たり前のように聞こえるかもしれないが、本以外の娯楽が極端に増えている現代、本を読むということを技にできていない人が実に多い。読書をしている人としていない人とでは、十年、二十年たったときに人間としての魅力がまったく違ってきてしまう。
3.(日記)を書く
人間の心は、言葉とイメージによってコントロールされている。イメージはもちろん大切だが、私たちが自己の倉念を培うには、より言葉の力が大きい。言葉を呪文のように何回も繰り返してつぶやくことには大きな効果がある。だがそれにも増して、効果があるのは書くことだ。文字を書きつらねることで、こうありたいという理想の『炎はいっそう燃え上がる。私の場合も、自分の中のもやもやしたものを日記に叩きつけるように書くことで思想は反復され、ますます強固に自分の考え方の核をつくっていったと思う。
ブログには、本当の秘密は一切書けない。どんなに言いたくても本音をぶつけるようには書かないだろう。つまり、書くときにエンターテインメントの要素が相当強く入るわけで、これは孤独の作業とはやや意味が違う。
岡本太郎の孤独力
人真似のような絵は描きたくない。それははっきりしていても、まだ十代だった岡本は、自分の目指す芸術の方向性を見つけていなかった。行き先の見えない道程をひとり歩むとき、さぞひとりぼっちの寂しさが堪えたことだろう。だが、ここで安易に慰めてくれる仲間や手軽な芸術を求めて安きに流れないところが岡本らしい。二年半後、彼はピカソの絵に出会い、やっと抽象画というのめりこめるスタイルを見つける。ここから先、岡本はひたすら描いた。