芸術家の岡本太郎氏が書いた生き方についての本
捨てることこそ、本当に生きること
- 最高の書き出し
人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。 財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。 過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。
選択を迫られた時
ほんとうの人生を歩むかどうかの境目はこのときなのだ。 安易な生き方をしたいときは、そんな自分を敵だと思って闘うんだ。 たとえ、結果が思うようにいかなくたっていい。 結果が悪くても、自分は筋を貫いたんだと思えば、これほど爽やかなことはない。 人生というのはそういうきびしさをもって生きるからこそ面白いんだ。
- 迷ったら危険な道を選べ
ほとんど誰でも、自分で意識するしないにかかわらず、常に迷い、選択を迫られている。
そしてみんな、必ずと言ってよいほど、安全な、間違いない道をとってしまう。 それは保身の道だから。その方がモラルだと思っている。ぼくは、ほんとうにうんざりする。
ぼくはいつもあたりを見回して、その煮えきらない、惰性的な人々の生き方に憤りを感じつづけている。
ぼくが危険な道を運命として選び、賭ける決意をはっきり自覚したのは二十五歳のときだった。
- 迷う理由は「やりたいから」
確かに危険を感じる。そっちへ行ったら破滅だぞ、やめろ、と一生懸命、自分の情熱に自分で歯止めをかけてしまう。 しかし、よく考えてみてほしい。 あれかこれかという場合に、なぜ迷うのか。 こうやったら食えないかもしれない、もう一方の道は誰でもが選ぶ、ちゃんと食えることが保証された安全な道だ。 それなら迷うことはないはずだ。もし食うことだけを考えるなら。 そうじゃないから迷うんだ。危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。ほんとうはそっちに進みたいんだ。 だから、そっちに進むべきだ。ぼくはいつでも、あれかこれかという場合、これは自分にとってマイナスだな、危険だなと思う方を選ぶことにしている。 誰だって人間は弱いし、自分が大事だから、逃げたがる。 頭で考えて、いい方を選ぼうなんて思ってたら、何とかかんとか理屈をつけて安全な方に行ってしまうものなのだ。 かまわないから、こっちに行ったら駄目だ、と思う方に賭ける。
自分を見限らない
自分のことが自分でわからないのに、勝手に自分はダメだと見切り、安全な道をとってしまう。 このように自分を限定してしまい、その程度の人生で諦めてしまえば、これは安全な一生。 だが、自分が今の自分を否定して、更に進み、何か別な自分になろうとすることには大変な危険が伴う。 そして、ほとんどの人はこの危険に賭けようとはしない。 それは、今までにこの危険に賭けて失敗した人がいたり、また危険に賭けない方がいいというムードが日本人全体にあるからだ。 このムードに従って、みんな自分の分限を心得てしまい、消極的にしか生きていない。
- 夢への挑戦そのものが成功
人間にとって成功とはいったい何だろう。 結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。 夢がたとえ成就しなかったとしても、精いっぱい挑戦した、それで爽やかだ。
覚悟から始める
ただ、自分で悩んでいたって駄目だ。 くよくよしたってそれはすこしも発展しない悩みで、いつも堂々めぐりに終わってしまう。 だから決断を下すんだ。 会社をやめて別のことをしたいのなら、あとはどうなるか、なんてことを考えないで、とにかく、会社をやめるという自分の意志を貫くことだ。 結果がまずくいこうがいくまいがかまわない。 むしろ、まずくいった方が面白いんだと考えて、自分の運命を賭けていけば、いのちがパッとひらくじゃないか。
情熱があるから行動できるんだとか人は言うが、そうじゃない。逆だ。 何かをやろうと決意するから意志もエネルギーもふき出してくる。 何も行動しないでいては意志なんてものありゃしない。自信はない、でもとにかくやってみようと決意する。 その一瞬一瞬に賭けて、ひたすらやってみる。それだけでいいんだ。また、それしかないんだ。
あっちを見たりこっちを見たりして、まわりに気をつかいながら、カッコよくイージーに生きようとすると、人生を貫く芯がなくなる。 そうじゃなく、これをやったら駄目になるんじゃないかということ、まったく自信がなくってもいい、なければなおのこと、死にもの狂いでとにかくぶつかっていけば、情熱や意志がわき起こってくる。
繰り返して言う。うまくいくとか、いかないとか、そんなことはどうでもいいんだ。結果とは関係ない。めげるような人は、自分の運命を真剣に賭けなかったからだ。
自分の運命を賭ければ、必ず意志がわいてくる。もし、意志がわいてこなければ運命に対する真剣味が足りない証拠だ。
一度死んだ人間になれ
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“己を殺せ”
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自分を"落ち込ませる"
自信に満ちて見えると言われるけど、ぼく自身は自分を始終、落ちこませているんだ。 徹底的に自分を追いつめ、自信を持ちたいなどという卑しい考えを持たないように、突き放す。 つまり、ぼくがわざと自分を落ちこませている姿が、他人に自信に満ちているように見えるのかもしれない。 ぼくはいつでも最低の悪条件に自分をつき落とす。 そうすると逆にモリモリッとふるいたつ。 自分が精神的にマイナスの面をしょい込むときこそ、自他に挑むんだ。 ダメだ、と思ったら、じゃあやってやろう、というのがぼくの主義。
自分を殺す、そこから自分が強烈に生きるわけだ。 それがほんとうに生きることなんだ。
三日坊主でかまわない
何かをはじめても、つづかないんじゃないか、三日坊主に終わってしまうんじゃないか、なんて余計な心配はしなくていい。 気まぐれでも、何でもかまわない。ふと惹かれるものがあったら、計画性を考えないで、パッと、何でもいいから、自分のやりたいことに手を出してみるといい。 それでもし駄目なら──つまりつづかなかったらつづかなかったでいいんだ。いいと思うべきだ。
ぼくは、昔から三日坊主でかまわない、その瞬間にすべてを賭けろ、という主義なんだ。だから、三日坊主になるという〝計画〟を持ったっていいと思う。
- 「いずれ」と言うのをやめる
「いまはまだ駄目だけれど、いずれ」と絶対に言わないこと。 〝いずれ〟なんていうヤツに限って、現在の自分に責任を持っていないからだ。 生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて、現在に充実することだ。 過去にこだわったり、未来でごまかすなんて根性では、現在をほんとうに生きることはできない。
自分は特別だと思うのではなく、ダメなやつだと思う
そういう人の特徴は、みんな自分だけは特別だと思っていることなんだ。 「自分は」だらしがない、「自分は」神経質だ、とか。そう思いたいかもしれないが、それは違う。 ウヌボレだといってもいい。そんな人間は、がっかりするくらい、この世の中にいっぱいいる。 むしろ、ほとんどがそんな人間だと思った方がいいかもしれない。
ぼくは逆の発想をしてみることをすすめる。 自分は駄目な人間なんだとか、こうやったらきっと駄目になるだろう、それならそのマイナスの方に賭けてみるんだ。 つまり、自分で駄目だろうと思うことをやってみること。 それは、もちろん危険だ。 失敗に賭けるんだ。 でも、駄目だと思うことをやった方が、情熱がわいてくる。
みんなどうしても、安全な道の方をとりたがるものだけれど、それが駄目なんだ。 人間、自分を大切にして、安全を望むんだったら、何もできなくなってしまう。 計算づくでない人生を体験することだ。 誰もが計算づくで、自分の人生を生きている。
未熟な方が、強い
自分は未熟だといって悩んだり、非力をおそれて引っ込んでしまうなんて、よくない。 それは人間というものの考え方を間違えている。 というのは人間は誰もが未熟なんだ。 自分が未熟すぎて心配だなどというのは甘えだし、それは未熟ということをマイナスに考えている証拠だ。 ぼくに言わせれば、弱い人間とか未熟な人間のほうが、はるかにふくれあがる可能性を持っている。
結婚は人を卑小にする
結婚という形式にしばられた男と女は、たがいに協力し合うのではなく、相手の行動に反対の作用をする──こうして、たがいに、人間の可能性をつぶし合うしかない。 あるいは結婚という不自由があるからという理由で、自らが自由を実現できないことの、ゴマカシにしている。 つまりは、結婚が人間を卑小な存在にしているわけだ。
むしろ、〝結婚は恋愛の墓場〟というのは当たっている。結婚すると緊張もなくなり、双方安心してしまうので、もはや燃えるものはない。
- 子供による安心感と保障を得ようとする
結婚によって〝家〟を守るために、しきたり通り子供をつくる。 それによって老後の〝保障〟を得ようなどとは、すべて卑しい感じがする。 とかく妻子があると、社会的なすべてのシステムに順応してしまう。 たった一人なら、うまくいこうがいくまいが、どこで死のうが知ったことではない。思いのままの行動ができる。
では、夫婦がいつも新鮮な気持ちでいるためにはどうしたらいいかと言うと、最も親密な相手であると同時に、お互いが外から眺め返すという視点を忘れてはいけない。 ところがほとんどの場合、好きな相手と一緒に生活すると、ただ安心して相手によりかかってしまうからいけないのだ。
爆発
あるとき、パッと目の前がひらけた。 ……そうだ。おれは神聖な火炎を大事にして、まもろうとしている。 大事にするから、弱くなってしまうのだ。 己自身と闘え。 自分自身を突きとばせばいいのだ。 炎はその瞬間に燃えあがり、あとは無。──爆発するんだ。 自分を認めさせようとか、この社会のなかで自分がどういう役割を果たせるんだろうとか、いろいろ状況を考えたり、成果を計算したり、そういうことで自分を貫こうとしても、無意味な袋小路に入ってしまう。 今、この瞬間。まったく無目的で、無償で、生命力と情熱のありったけ、全存在で爆発する。それがすべてだ。 そうふっきれたとき、ぼくは意外にも自由になり、自分自身に手ごたえを覚えた。