日本のサラ金の歴史について詳細に書かれた本
以下、個人的に印象に残った部分をメモ
マイクロ・クレジットを実現していたサラ金
- バングラディシュのグラミン銀行の創設者ムハマド・ユヌスは信用力の少ない主体に金を貸して所得を増やす機会を提供する金融包摂による貧困削減への貢献を理由に2006年にノーベル平和賞を受賞している。
- 「貧困者を5人グループにまとめて資金を貸し付け、返済の連帯責任を追わせる」ことで円滑な貸金改修を実現した
- 金利は年20%だったから現在の大手サラ金よりも高利
- 日本のサラ金は営利企業であるにも関わらず、このような融資を実現していた
- これにより、日本ではサラ金がセイフティネットとして機能するという奇妙な事態が発生していた
なぜサラ金が与信の少ない低所得者層に金を貸せたのか という問いに以下で答えていく
戦前の日本における個人間の資金貸借
- 戦前期の日本では個人間の資金貸借が非常に活発だった
- 知り合いの間の金の貸し借りだったが、無利子ではなく、かつ高利だった
- その理由は 親戚・知人に金を貸して利息制限法以上の高利を取る「素人高利貸し」が副業として認知されていたから
「使い」と「走り」によるマルチ的構造
- 素人高利貸しが組織を作って玄人化したのがサラ金の前身
- 高利貸しは非常に儲かった、かつ金を貸すということは貸した相手に対して優位な立場に立てる(プライドを満たせる)ため、高利貸しを目指す男が多かった。
- 乞食からでも走り、使いと出世して高利貸しになれる事例もあり、一攫千金を夢見れる職業だったと考えられる。
- 高利貸しの親玉は、そういう男たちを一次請けとして「使い」、孫請けとして「走り」と呼ばれる人間を雇って組織化していた
- 親玉が資金を提供し、使いや走りは自分の知り合いにその金を貸す。利息の一定割合をレベニューシェアでもらえる。ただし、貸し倒れた場合は使いや走りの自己責任というマルチ的な構造
手数料と引き換えに、「使い」は高利貸に対して貸金回収の責任を負い、さらに孫請けの「走り」は借主の保証人となって「使い」に対して責任を負う。一人の高利貸から多数の借主までの間に「使い」や「走り」が介在することで、借金踏み倒しのリスクは下位の代理人に転嫁され、上位にいる高利貸はほとんどノーリスクで金を貸せた。
- 顔見知りへの貸金にすることで、踏み倒しリスクを減らしていた
一方、借り入れる客の側の認識としては、「使い」や「走り」は多くの場合すでに顔見知りだったから、金を借りたとしても、相手はあくまでも知人あるいは友人であって、貸金業者から金を借りたという認識は乏しかったと推測される。
サラリーマンに対する金貸し
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サラリーマンが登場してきた戦間期の貸金業者はサラリーマンに対する貸金を避け、商人に対して積極的に貸し付けていた
- 商人は地元に顧客を持っているため、住居をカンタンに変えられない = 夜逃げできない
- サラリーマンはカンタンに転居できるため、夜逃げリスクが高いとされていた
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サラリーマンに対する金貸しは「職場の同僚」によって行われていた
「同業者だからこの金利なんだ」というセリフは、素人高利貸の本質を突いていると言ってよい。職場の同僚なら毎日顔を合わせるし、給料日もはっきりしている。だから、金を貸しても取りはぐれる危険が小さく、金利も多少は抑えられる。身近な同僚だからこそ安心して金を貸せるわけである。
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戦前期から戦間期にかけてはサラリーマンの副業として、同僚への素人高利貸しが推奨されていた
庶民金融の代表格 質屋
質屋は、中世以来の古い歴史を持ち、長く個人向け金融機関の中心だった。質屋では、質草と呼ばれる担保を取って金を貸す。担保を取れば、仮に貸金が返済されなくても質草を売ればよいので、貸し倒れのリスクは大幅に低下する。そのため、借り手が貧困でも問題はなく、前章で見た戦前期の貧民窟・新川でも質屋は盛んに利用されていた。
- 質屋は物価が上がると有利になる、物価が下がると斜陽化する
敗戦後の日本では、圧倒的なモノ不足により、物価が激しく上昇していた。激しいインフレの下で、質草の価格は元の貸金以上に上昇したから、万一踏み倒されても質流れ品を売れば逆に儲かることさえあった。人びとがモノ不足に苦しんだ敗戦後の困難な時代は、質屋にとっては黄金時代だった。 だが、復興が進んでモノ不足が解消されると、質屋は斜陽化した。モノが溢れる時代になれば、質入れした品物よりも、もっと便利で新しい商品を入手したいという欲望が支配的となる。その後、質屋は金融業としての側面を後退させ、古物商としての性格を強めていった
戦後、団地金融の登場
- 団地の登場
敗戦後の深刻な住宅不足を解決するために、日本住宅公団(現:UR都市機構)が設立された。同公団によって郊外に次々と建設された団地は、密集した下町の住宅と違って日当たりがよく、内風呂やシリンダー錠といった最新の設備を備えたモダンな住まいだった。それだけに入居するには家賃の五倍以上の月収が必要で、厳しい審査を受けねばならなかった。
- 非常に高価な三種の神器を購入するために月賦(分割払いローン)が団地族の専業主婦をはじめとして流行
- 団地の主婦どうしの競争心もあって購入が促進されたと言われている
三種の神器が五万円前後という物価水準だった当時、消費革命は「五万円革命」とも呼ばれている(桝潟一九九四)。五万円は当時の大卒初任給の二ヵ月分を超える金額だから、高価な電化製品を買うのに現金払いとはいかなかったのだろう。
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団地の入居審査を通った人々なら一定以上の支払い能力を持ち、貸し倒れリスクが低いと判断して、団地族に対しての集中的な貸金を初めたのが団地金融
- これによって信用情報の収集コストを大幅に削減したのが、革新的だった
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流行していた月賦販売に乗っかって「現金の月賦販売」「現金の出前」といったキャッチコピーで売り込んだ
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さらに現金を届けに直接自宅にいくことで、自宅の中を見て信用評価に使っていた
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鍵は情報の非対称性を知人ネットワークの外側でも上手く打ち破ったこと
素人高利貸は、自身がよく知る友人や同僚に金を貸し付けることで、情報の非対称性を小さくしようとしていた。素人高利貸に限らず、効率的に信用審査を実施し、情報の非対称性を最小化することは、金融取引を安定的に継続する上で死活的に重要な金融技術の一つである。 この点、団地金融では、顧客が団地族であるという事実が、有力な情報を提供してくれた。厳しい団地の入居審査をパスするほどの収入があれば、借金を返せなくなる可能性は低い。社宅の場合は、入居者の勤務先まで自動的に判明するので、さらに情報の非対称性は小さくなる。居住形態というノーコストで手に入る情報が、顧客の全信用情報を織り込んでいると判断し、大胆に金を貸し付ける。団地金融は、当時としては革新的と言ってよいほど簡便な審査方法を導入し、知人ネットワークの外側にいる人びとに安全に金を貸す道を切り開いた。現実の人的関係の有無に制約された素人高利貸の限界を、団地金融は見事に突破したのである。
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「妻だけで返せると判断できる範囲の借金なら貸し倒れリスクが低い」という戦略で団地の専業主婦に特化して貸付けた
- 妻の返済が滞ると、借金を滞納していることを夫の名前とともに団地に張り出して夫に返済を強制した
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徐々に競争が激化する中で、出前の迅速さで競争した団地金融業者は、出前のコストが高くなり、店舗型として展開し始めたサラリーマン金融業者に取って代わられていった
サラリーマン金融の登場
- 1961年に証券取引所市場が開設され、上場企業という概念が生まれるなどサラリーマンが安定した職業になってきたタイミングでサラリーマンに対して貸し付ける業者が生まれた
- 上場企業のエリートサラリーマンに貸付先を絞ることで、信用評価のコストを減らしていた
- 信用調査は名刺による身元確認だけだった
- さらに資金の使途が「サラリーマンの付き合いでの飲み」などの「前向きな投資」だと良いとしていた
- 当時の会社は付き合いによる人情で出世が決まっていたため、飲み会などでたくさんお金を使うサラリーマンは出世の可能性が高いと判断された
- 人情で出世が決まるということは、サラリーマンにとって会社に借金の滞納がバレると出世に響くため、会社の連絡先を抑えているだけで返済の強制力となった
銀行からの資金調達力が競争力に
- サラ金が規模を拡大するには元手となる資金を低利で調達する必要があり、銀行との取引が不可欠
- 武富士は後発だったが、銀行との関係から巨額の融資資金の確保で先行し、業界首位に
武富士は、同行の元融資部長を常務取締役として迎え、部課長クラス三名の出向を受け入れていた。この時点では、アコム・プロミス・レイクといった先発大手でさえ、まだ銀行から取締役を迎えてはいない。カネとヒトを介した武富士と東京相互銀行の関係は、相当に深く親密なものだった。 東京相互銀行をメインバンクとし、巨額の資金調達に成功したことで、武富士は短期間で業界最大手へと成長した。
融資先の拡大
- 1970年代の2度のオイルショックによって、不況になるとサラリーマンの前向きな消費が落ち込み、家計のやりくりのための借金など後ろ向きなニーズが増えた
- サラ金業者は、主婦にもターゲットを広げ、「奥様ローン」「ご家族ローン」などの商品を売り出していった。
- これまで町中で男性向けに麻雀デザインのマッチを配っていた武富士が、女性を取り込むために配り始めたのがポケットティッシュ(当時ポケットティッシュを女性が化粧落としに使い始めていた)
- 独自の収入を持たない主婦や低所得者層にターゲットを広げたことにより、新たな信用評価の仕組みが必要になった
- そこで編み出されたのが「ブラックリストによる信用情報の共有」と「団体信用生命保険の導入」
万一、契約者本人が死亡ないし重度の障害を負った場合、団信に入っていれば返済を免除され、貸し手となる金融機関は未返済の貸付金を保険金によって回収できる。団信は、多額の資金を個人に貸し付けるリスクを分散する上で、極めて重要な役割を担っている。
サラ金の上場
- 1990年代になるとアコム、プロミス、武富士、アイフルが株式上場
- 資本市場からの資金調達が可能になっただけではなく、社会的な信用度がまして低金利での銀行からの融資も引けるようになった