セコムの創業者である飯田亮氏が2007年に自身の起業人生を綴った本
仕事を面白くするために変化を創る
変化を求め、未知のことに挑む。そこから活力が生まれます。私は組織や社員を大事にしてきました。その社員がおもしろいと思うのは変化であり、挑戦です。会社も人間も十年一日の如くでは、おもしろいはずがありません。
つまらないけれど生活のためだから働いているー。私はセコムの社員にそんなふうに過ごしてほしくない。「セコムという会社はおもしろい」「仕事はおもしろい」と思ってほしいのです。会社を退職するとき、「苦労もあったが、それに勝る喜びがあった。すばらしい時間を過ごすことができた」と言ってもらいたい。そのためにも、セコムは常に変化し、新しいことに挑戦し続けなければならないと思っています。
物事はやってみることが重要
もう一つ、私の考えの中に根強くあるのは、物事は、やってしまわなければ、いつまでも頭に残るということです。だから、あるところまで考えたら、やってみる。
失敗したらしかたがない、と割り切ります。二度とやらなければいいし、何がダメだったのか、なぜダメだったのかがわかり、その経験が次に生きます。とにかく、何事もやってみないとわからないということです。
人というのは、怜悧なところもあるから、新しいことをはじめるときに、「ダメな理由」をいくつも考えます。その結果、「やらない」「やめておく」という結論にいたったりもします。私はそれがいやでした。
社会にとって価値のある仕事しかしない
それにしても、セキュリティという仕事と出会ったことは宿命的でした。利益追求型の仕事はできない、社会にとって価値のある仕事でなければならないーそう考える人間に、私はつくりかえられましたから。
バブル全盛の頃、いくら儲かることがわかっていても土地に投資しなかったのは、そのせいです。「セコムが余分な土地を買って、何の意味があるんだ」「意味はありません」「なら、よそうよ」。社員とそんな言葉を交わしたものです。
独立心の芽生え
独立心が頭をもたげはじめたのは、岡永商店に入って六年目の頃からです。十代、二十代の青年には誰でも、「なにがなんでも独立したい」というがむしゃらな独立心、青雲の志があるでしょう。私もそうした気持ちを人一倍持っていました。 岡永では上に兄が三人いましたから、その気持ちが余計に強かったようにも思います。 どうがんばっても”長幼の序”は崩せない。いつまでも頭が上がらないのはいやだ、五十づら、六十づらさげて人に使われていたくない、と思ったんです。
最初に考えた商売は、当時人気が出はじめていたボウリング場経営でした。 それまでは米軍専用だった神宮外苑のボウリング場が日本人に開放されたというので、私も遊びにでかけ、「これは商売になる」と思ったのです。まだ誰もはじめていませんでしたから
それで、エンターテイメントに詳しい人の話を聞こうと思って、学生時代の友だちの紹介で、後楽園スタヂアムの眞鍋八千代社長に会いに行きました。 「ボウリング場をやりたいんですが」と切り出したら、「やめといたほうがいい。金がないだろ。借金してやるもんじゃない。それにボウリングはお客がレーンを独り占めにして、効率が悪い。それよりスケート場のほうがいいよ。いくらでもお客を入れられるから」当時、後楽園にはスケート場があって、繁盛していました。その経験からそうおっしゃったのだと思います。実際、金もないし、「それもそうだな」とボウリング場はあきらめました。そのとき、やらなくてよかったと、いま思います。それから七、八年経ってボウリングブームが起きたとき、私の性格からすると、借金してでも烈な勢いでボウリング場をつくっていたでしょう。一時は栄耀栄華を極めたでしょうが、ブームが去ったあと、きっとつぶれていました。
父の使いで藍澤証券に行き、当時東京証券取引所理事長だった藍澤明八会長に会ったことがあります。いきなり、「証券会社をやらないか」と言われ、「資金はいくらくらい必要なんですか」と訊いたら、「一億円」と言われ、夢のような話だなと、私には実感がわきませんでした。これも、やっていたら失敗していたと思います。
親友と決めた独立の5条件
この頃、学習院時代の友人の戸田寿一氏がよく遊びに来ました。彼は一年上級で野球部に所属していましたが、友だちを介して知り合い、親しくなったんです。といっても、飲み友だち。これは学生の頃の話ですが、新宿西口の飲み屋街で泡盛を五杯飲んだが、二人とも酒が強いから酔わない。で、新宿の地下道を身をつまんで駆けたこともあります。また、あるとき、昼飯代を稼ごうと思って、パチンコをやろうと言ったら、彼が「そんなことに運を使うのはもったいない」と言うので、「運は使えば使うほど増える」と言いました。彼は「頭のてっぺんからつま先まで楽観的な男だな」と思ったそうです。 その戸田氏が遊びに来ると、父の機嫌がいい。本当は私は六男で、長兄の博の上に寿一という男の子がいたんですが、赤ん坊のときにハシカで死んだ。同名だから、父は「寿一の生まれ変わりだ」と言って、喜んでいました。 母も彼が来るとニコニコする。これは後年、会社が軌道に乗ってからのことですが、「おまえは雑だけど、戸田さんが緻密だからよかったね」と母に言われたことがあります。「子を見るに親に如かず」ってね。私が事業の大まかなデザインを描くと、彼が粗いところをチェックして完璧な絵に仕上げてくれる。最高のパートナーですよ。
それはともかく、戸田氏は英国生まれのカナダ育ちだから英語が達者で、卒業後、留学しょうと考えていたそうですが、お母さんが病気になったので断念。外資系の航空会社や旅行代理店に勤めたりしていましたが、私同様、独立して事業を起こしたいという気持ちを持っていました。 店にはいくらでも酒があるから、仕事が終わると二人で酒を酌み交わしながら、「一緒にでっかいことをやろうや」と言っては、盛り上がっていました。 話はいつも「何をやるか」に終始しましたが、何かで絞らないと漠然としていて単なる思いつきで終わる。そこで、独立して事業を起こすとしたらどんな仕事がいいか、決めることにしました。 「どうせやるならこれまでにない仕事がいいな」「利息か利益かわからないような仕事はやめようぜ」
そんな話し合いの中から、独立の五条件を定めました。 まず、努力をすれば大きくなる仕事であること。次に、誰もやっていない仕事であること。人から後ろ指を差されない仕事であること。大義名分のある仕事であること。そして、掛売りで苦渋をなめさせられていたから、前金も取れる仕事であることとし、それらの条件に合う仕事を探しました。
「アイスクリーム店をチェーン展開したらどうだろう」「消費者組合はどうだ。会員が次々と会員を増やしていくやり方で、できないかな」おもしろそうな候補はいくつもありましたが、その中で最も有力だったのが通販売でした。 戦後、物のない時代に見た、アメリカのシアーズ・ローバック社のカタログには夢がいっぱい詰まっていました。これも欲しい、あれも欲しいと憧れたものです。それで、「どうだい。シアーズ・ローバックの日本版をつくるというのは。日本人は舶来品に弱いから、いけるぞ」「そうだな。まだ誰もやっていないから、やれば成功する確率は高いな」と、二人とも大いに乗り気になったので、相当細かく事業のデザインを考えました。特に在庫管理システムは、岡永商店で経験があったから、ほぼ完成していました。だから、はじめていたらうまくいっていたと思います。
警備業との出会い
ところが、忘れもしない一九六一年(昭和三十六年)の冬、浅草の鳥鍋屋で、戸田氏と友人とで飲んでいたら、海外旅行をして帰ってきたばかりの友人が、「ヨーロッパでは、会社の財産をよその会社に守ってもらっている」と言う。
「よその会社に?」「日本では守衛がいたり、社員が交代で宿直したりして守っているが、ヨーロッパではその仕事を備専門の会社が請け負っているんだよ」
その瞬間、ゾクゾクッとしました。まず、「誰もやっていない」と思った。次いで思ったのは「恥ずべき仕事ではない」ということでした。そして、「やれば、もしかしたら大きくなれるかもしれない」と思って、心が震えたんです。
私は友人の顔を見て思いました。ヨーロッパに警備業があることを、友人のように旅行して知った人、私のように話を聞いて知った人は、たくさんいるだろう。聞けば、昨日今日はじまった事業ではないから。しかし、日本では誰もはじめていない。 なぜか。当時は、誰もが「守衛や宿直は社内の人間で十分」と思っていたから、ハナから事業として成立しないと考えたのかもしれない。知識も経験もないから、事業を立ち上げるのは難しいと思ったのかもしれない。あるいは単に失敗することを恐れたのかもしれない。
28歳で警備業に人生を賭けることを決意
では、私がやろうと思ったのはなぜか。一つには、私はもともと、自分をアピールしたい、自分を何かで表現したいという欲求が人より強かった。社会に出てからは事業で自己を実現したいという意欲が強まっていきました。友人と会った頃は新しい仕事に飢えていました。当時の精神状態をたとえていえば、駆け出したい競走馬が檻の中で足踏みしているようなものでした。だから、友人のひとことで扉がパッと開き、うれしさのあまり駆け出したんです。 それと、楽観的な性格が幸いしました。管備の知識も経験も、事業資金もありませんでしたが、そんなものは知恵と工夫でなんとかなる、と思いました。のちに、高校時代の恩師から「飯田は先のことをあまり考えないからできるんだよな」と言われましたが、そのとおりでした。
**事業の発端は単純明快なほうがいいんです。ぐちゃぐちゃ考えると、できない理由や失敗することばかり考えて、結局やらない。私はいいと思ったら、逡巡しないで足をポッと前に出す。**前は断崖絶壁かもわからないが、踏み出す。何事もやってみなきゃわからないよ、足を踏み出さなきゃはじまらないよ、という考えが根っこのところにあった。他の人がやらないで私がやったのは、その差ではないでしょうか
でも、足を踏み出す前に、独立の条件と照らし合わせることは忘れませんでした。まず、新しい仕事だから前金を取って取れないことはない。将来性という面でも、池田内閣の所得倍増政策が実行に移されだした頃で、今後、企業内備の重要性は高まるだろうから、十分にある。しかも、これまでにない新しい仕事だから、やり方次第で大企業にもなりうる。そして、企業の安全を守るのだから意義のある仕事であり、人から後ろ指を差されることもないし、大義名分も立つ。備業は独立の五条件にピッタリ当てはまりました。 **将来的に期待が持てる仕事など世の中にそうざらにあるものではない。私は人生を賭ける決心をしました。**通信販売の構想には愛着があったが、「これにしよう」と言ったら、戸田氏も「そうだな」と言って、破顔一笑しました。 日本警備保障が誕生するのはそれから一年ほどあとのことになりますが、日本の安全産業はまさにこの瞬間に呱々の声をあげたのです。それは戸田氏と私の人生を決めた瞬間でもありました。戸田氏、二十九歳、私、二十八歳でした。
最初はあえてオリジナルに
一九六二年(昭和三十七年)の一月だったと思いますが、知人のコネで、東京・九段にあった千代田会館の一室をタダで借り、戸田氏と二人で会社設立のための作業を開始しました。日本ではじめての事業ですから、普通なら海外視察をするのでしょうが、われわれはしませんでした。見学をすれば、どうしても真似をしたくなります。われわれは、それが嫌だったという以上に、自分たちが考えたとおりの会社をつくりたかったのです。すべてゼロからつくっていく“生みの楽しさと苦しさ、の両方をたっぷり味わいました。それだけに、窓から見える千鳥ヶ淵の桜の美しさに心を和まされたものです。
出資金
出資金は、私が持ち株を売却して得た五十万円と、戸田氏の出資分、それに用金庫から借りても二百万円にしかなりませんでした。
まだ社会的信用もありませんから、何かバックになるものがほしい。そんなことを考えながら文献を読み漁っているうちに、「国際警備連盟」の存在を知りました。各国から一社ずつ加盟している備会社の団体です。これに加盟することができれば会社に箔が付くと考え、国際著備連盟の会長宛に、「このたび日本ではじめて備会社をつくることになった。ついては連盟に加盟させてほしい」という手紙を戸田氏が書いて送りました。すぐさま会長のフィリップ・ソーレンセン氏から返事が来ました。その要旨は、「かねて、自分は東南アジアでセキュリティビジネスをしたいと考えていた。ついては、自分が日本に行くまで会社の設立を待ってほしい。新しいビジネスは最初にやる人のモラルやつくり方が、そのビジネスの方向を決める。社会に与える影響も大きいので・・・・・・」というものでした。要するに、備業をはじめるのに間違ったことをされては困るということでした。
一九六二年(昭和三十七年)の五月か六月にソーレンセン氏が来日、帝国ホテルで面談したところ、会社の構想に賛同しただけでなく、「出資したい」と言います。 そのとき、彼は「香港で投資する予定の商談がご破算になったので、その分を回したい」と言っていましたが、あとで考えると、日本における警備事業の将来性を読んでの投資だったようです。 私も戸田氏もとにかく早く会社をつくりたいから、深く考えずにオーケーしました。設立直前になって、出資比率を五十パーセント以上にしたいと言うので、そのときも一万円だけ花を持たせて、ソーレンセン氏が二百一万円、私と戸田氏が百九十九万円にしました。 若気の至りというか、一パーセント以下の差とはいえマジョリティを握られることの意味がわかっていませんでした。 ちなみに、この比率がもとで、後年いろいろ交渉事がありましたが、のちに株式を上場するときに株のすべてを譲渡してくれたので、問題は円満に解決しました。
最初はターゲットを絞らずとにかく営業
早速、戸田氏と二人で営業を開始しました。よく「はじめの頃はどういう会社から契約を取ったのか」と聞かれますが、私たちはあらゆる業種を対象にしました。ここがよさそうだ、この業界がよさそうだなどと、売り込み先を選んだりはしませんでした。 事務所の隣のビルから売り込みをかけたくらいです。隣のビルから隣のビルへ、ドアツードアの飛び込みセールスです。そのうち、都心の地図を買ってきて、今日はこの区域、明日はこの区域と攻めていったのですが、まったく売れません。
SPアラームのレンタル制という英断
開発にいたるまでにいろいろと苦労しましたが、私が一番頭を悩ましたのは、機械を売切りにするか、レンタルにするかでした。 欧米では売り切り方式です。なるほど、売り切りにすれば機械を購入するための資金繰に苦労せずにすみます。しかし、売り切りにしたら、新しい機械に切り替えたほうがいい場合でも、お客様の了解を得なければなりません。 また、たとえばセンサーに不具合が発生したら、取り替えなければならないが、そのたびにお客様からお金をもらうことになります。 もしお客様に支払いを待ってくれと言われて待ったら、一つのセンサーのために機械警備システムが機能しなくなります。つまり、その間、安全に空白が生じます。それに、売り切りにすると、営業員は、成績をあげるために余分なセンサーまで売ってしまうかもしれません。これは不誠実な商売です。 それより何より、われわれの目的は「安全」を売ることであって、その道具である機械を売ることではありません。また機械を買ってもらうことにすると値が張り、それほど普及しません。それでレンタル方式にするしかないと考えました。
それにしても、よくぞレンタル方式にしたと自画自賛したい気持ちです。売り切りにしていたら、いまのセコムは存在しません。セコムのいまの姿は、機械をレンタルにして、いい償却資産を持っているからうまくキャッシュフローが回って、次の投資ができるわけです。売り切りにしていたら、こうはいきません。 売り切れば経営的には楽なのに、資金繰りが苦しいレンタル方式を選択したのは、創業のときからそういう道を歩いてきたからです。 安直な方法、楽な方法は、そのときはよくても将来的には決してよくない。難しい方法を選び、それを突破すれば本当の力がつく。社内では「あえて難路を選ぶ」と言ってきましたが、そうした考え方がこのときも出たのです。 繰り返しますが、レンタルにしたおかげで、機械の償却が終わると、後は契約が続く限り利益が上乗せされていきます。ひと頃、当社の連続増収増益が注目を集めましたが、それはレンタル方式の自然な帰結に過ぎません。 たとえば、ホームセキュリティでいえば、契約期間は五年間ですが、保険と同じで、更新されるお客様がほとんどですから、その間に新規の契約が取れれば、その分、売り上げが積み重なっていきます。 また、このシステムは集約メリットが出るしくみになっています。管制センターは、契約先が百件でも五百件でも千件でもほぼ同じ人員体制で対応できますから、契約件数が増えれば増えるほど一人当たりの生産性は上がっていきます。逆に言えば、コストは低減していく。つまり利益が上がっていくわけです。 まさに、レンタルか売り切りかは、その後の会社の発展を大きく左右する分かれ道でした。
SPアラームにフォーカス
「SPアラーム」についてはもう一つ重要な決断をしました。
一九七〇年(昭和四十五年)秋、箱根・宮ノ下の富士屋ホテルで支社長会議を開き、「巡回響備を打ち切る。常駐備は増やさない。今後はSPアラーム一本槍でいく」と宜言しました。役員会にも盛っていないくらいですから、全員が寝耳に水。驚きで声も出ない有様でした。私は続けました。 みんなの顔が青ざめるのがわかりました。宣言したあとは、表だって反対の声を上げる社員はいませんでした。しかし、当時、巡回管備の契約は倍々ゲームで伸びていたし、常駐備の契約も好調でしたから、内心では反対だったと思います。 では、なぜこういう決断をしたのか。「機械にできることを人間がするのは人間の尊厳に反する」と言ったりしましたが、実はいくつか理由がありました。
一つは、巡回警備がこのまま増え続けると、人の管理に時間とエネルギーを取られて、「SPアラーム」の普及がおろそかになることです。エネルギーを分散せず、「SPアラーム」一本に集中したいと考えたのです。 一つは、給与水準がよくなかったので、給与体系を抜本的に見直して、大幅なベースアップをはかりたかったのです。そのためには、それを可能にする企業体質に変える必要があり、その方策として巡回備廃止、常駐響備の契約料金のアップを断行するしかなかったのです。 さらにいえば、東京証券取引所への上場も念頭にありました。当時、比率は低かったが、臨時雇用の社員を抱えていました。この臨時雇用をなくさなければ上場は難しいと考えたのです。そのためには常駐備の契約先を減らす必要がありました。 この決断に不安がなかったと言えばうそになりますが、現状を否定し、現状を打破しなければ、前へ進めないと思っていました。
会議のあと、真向かいの老舗旅館・奈良屋に泊まり、大宴会を開きました。これからの契約先との交渉を考えると、飲まざるを得なかったのでしょう。みんなよく飲み、騒ぎました。お開きにしたのは十二時頃で、しゃべりすぎて、翌日はみんな声が出なくなるほどでした。早朝ゴルフをやって、全国に散っていきました。そのときは腹が据わったのでしょう、「やるしかない」とさっぱりした顔をしていました。 結局、常駐警備の契約先の七十パーセントは契約料金のアップを了承していただき、三十パーセントは解約になりました。そのなかには大新聞社、電力会社もありました。料金アップによる売り上げ増と解約による売り上げ減が同じ。計算どおりの結果となりました。
構想は「部屋ごもり」から生まれる
世間では飛び回っていると見られていますが、私は、考えている時間が長い。一日五~六時間、何日にもわたって執務室にこもって考えます。その間、誰も寄せつけません。外部からの連絡も遮断する。社内では「部屋ごもり」と呼ばれています。 トイレや寝床、車の中でいい考えが浮かぶという人がいますが、私は不器用ですから、細切れでは考えられません。考えるときは考えることだけに集中します。 考えるのは組織のことであったり、新しい事業やサービスであったりと、そのときどきで変わりますが、構想がまとまるのに早くて三か月、一年くらいかかることもめずらしくありません。 はじめはもやもやとしているんです。それがだんだん形になってくる。そうするとデッサンを描く。何度も描き直す。発想は紙に落とさないとダメ。「SPアラーム」を売り切りにするか、レンタルにするかを考えたときも、双方のメリット、デメリットを書き出していき、貸借対照表のようなものを作ったものです。 ただ、あまりの苦しさに、どうして俺はこんなバカなことをしているんだと思って、放り出したくなります。でも、創業以来、これをやるのがトップの仕事と考えて、続けてきました。 途中で誰かに相談することもしない。「これ、どうしようか」と言ったとたん、自分の思考は止まるからです。自分で考え抜いてから「どうだ」と言うべきだと思っています。 とにかくエネルギーのいる作業です。しかし、考えが煮詰まってから、さらにあと五分というように粘っていると、突然アイデアがまとまり、構想になります。その達成感は何物にも代えられません。画家が真っ白なキャンバスに絵を描くようなもので、いまはもう仕事というより趣味のようなものになっています。