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78/ 社長失格

株式会社ハイパーネット元代表取締役社長の板倉雄一郎氏が1998年に書いた創業から倒産までの体験記

株式会社ハイパーネット元代表取締役社長の板倉雄一郎氏が1998年に書いた創業から倒産までの体験記

ハイパーネットの軌跡

  • 事業は儲かることが分かっていた前の会社のボイスリンクの拡張版、まず脇を固めた

事業そのものより、事業をする上での環境作りを先決しようと考えたからだ。 とにかくまず誰に出資してもらうか、そして自分の出資比率をどのくらいにするか、役員はどういった顔ぶれで構成しようか…… こういった会社の基礎を固めること、それを優先したかった。 だから事業の具体的内容を煮詰めるのは二の次でいい。 会社の体裁が整えば、事業の具体的アイデアはいくらでも、そしていつでも作り出せる。 ぼくはこんな具合に楽観していた。

  • アスキーの元会長で大株主の郡司氏にずうずうしく出資依頼

ぼくのずうずうしいリクエストに対して、郡司さんはうなずいたまま返事をしなかった。 言い過ぎたかな。少々心配したが、それでも言いたいことはこの機会に全部言っとくべきだと思い直した。 もし郡司さんがこの事業に参加してくれるとなれば、間違いなく長い付き合いになる。 それをこの場で控えめな話ばかりをして取り繕ってしまうと、せっかくの資金調達は一時しのぎに終わり、後々面倒なことになろう。 となれば、こちらの希望はとりあえずすべて話しておく必要がある。

  • NTTのダイヤルQ2に対する規制でハイパーダイアルは上手く行かなくなってしまったが、広告領域で新規事業IMSを展開
  • IMSはTVCM等の広告に電話番号を乗せて、顧客からの電話にオペレーターで対応し、アンケートや懸賞への応募などを募るSolution

でも、今のぼくにはこのくらいの楽観性が必要だった。ダイヤルQ2の規制が進めば、いくら営業に力を入れようがハイパーダイヤルの事業が好転することはまず考えられなかった。そんな時にあまり深刻に考え込んでもしょうがない。とにかく商売のネタになりそうな話は、たとえどんなに小さなものであっても拾ってしまおう。

  • IMSを泥臭く営業

こんなときはどうする。やはり、地道な営業しかない。自らの足で営業しなければ、どんなに良いものでも売れないのだ。正攻法でいこう。ぼくはメディア頼りの甘っちょろい態度を改め、広告代理店という広告代理店を片っ端から訪問することにした。

  • IMSがPMF

後日電話をかけてきた応募者のリストなど最終データをクライアントに納品した際に、クライアントは、思いがけないほどの反響が消費者からあったことを教えてくれた。 この広告では、ヘルメットが当たった応募者は自分の頭のサイズを葉書で広告主の自動車工業会に知らせることになっていた。この応募者から届いた葉書の多くに、電話での受付が非常に便利で良かった、というコメントが寄せられていたというのである。これはいける。ぼくはIMSの将来性に確信を持った。消費者がこのシステムを受け入れてくれたからだ。

三年三月期、ハイパーネットの二回目の決算が巡ってきた。売上高の欄には、ハイパーダイヤル、ハイパーPCとならんで、わずか一九六万円ではあったが、IMSのこのキャンペーン広告の売り上げが計上された。  上々、とはまだまだ言えないが、とにかくIMSは動き始めた。

その中から、IMS二番目の仕事が決まった。何とあの電通からのオーダーである。クライアントも大手オーディオメーカーのパイオニアだ。一気に大手代理店を介して大口の仕事がやってきてしまった。一五〇〇万円の受注である。もう浮かれている場合じゃない。

  • JAFCO等VCから2億円の出資

ぼくは彼のアドバイスにしたがって、第三者割当増資を実行することになった。 九五年一〇月、第三者割当増資とワラント債の発行がきまった。 独立系からは船井キャピタル、銀行系からはすでに当社で唯一借入れの実績のあるさくら銀行系列のさくらキャピタル、それに今後の事業展開に絶対に欠かせないリースをしているオリックス系列のオリックスキャピタル、それにもう一つ、日本長期信用銀行系のNEDが新たに出資することになった。 証券系はすでにJAFCOからの出資を受けていたから、今回は加えなかった。 トータルの出資額は二億円。 そのすべてをワラントの発行という形を取った。 ワラントのうち一五%を彼らベンチャーキャピタルが取得して、残り八五%をぼくと個人出資者の郡司さんのストックオプションとしたわけである。

  • IMSは順調に成長している中で、インターネットの波がきて、新規事業ハイパーシステムを立ち上げる
  • ハイパーシステムは当時としては世界でも事例がなかったインターネット Ad Platform

ぼく自身、ゲームソフトまで制作していた経験がある。だからだろう。ぼくは、コンピュータの限界、使いにくさというのを嫌というほど知っていた。それゆえ、仕事の効率を上げるためにコンピュータを積極的に利用することはあっても、コンピュータそのもので消費者相手のビジネスをやろうという発想はまったくなかった。こんな面倒くさい代物を一般のサラリーマンや主婦、学生が嬉々として自分から使うわけはない──。まあ、そう思っていたのである。

ぼくには一つの理念があった。それは「いかに自身の事業をつぶせるか」である。誰もが自分の事業の永続を願っている。しかし、時代が、環境が変れば、一つの事業が同じ様相で生き延びることはできない。ならば、どうすればよいか。その事業の当事者が先回りして「この事業はどうやったらつぶれるのか」を想定し、原因を先に突き止めればよいのである。  では、IMSがつぶれるのはどんな時だろうか。ぼくの結論は、将来IMSをつぶすのは競合企業でも、経済恐慌でもない。コンピュータやインターネットを包括したマルチメディア技術の発展と普及である、ということだった。ちょっと考えればわかるが、IMSのサービスは、原則的にパソコン端末とインターネットで代替可能である。しかも、収集したマーケティング・データの加工のしやすさやサービスの拡張性を考えれば、むしろこうしたマルチメディアの活用の方に軍配が上がるのは論を待たない。

ぼくはインターネットを日々積極的に「活用」することで、新しいビジネスの種を模索した。本当にそれだけが目的なのか、といわれるといささか困るが。  ともかくインターネットの世界は、実際にアプローチしてみると、ぼくが想像していたよりもずっと間口も広いし、奥も深いということが分かってきた。それをどうビジネスに結び付けるか。さまざまなアイデアが頭の中に浮かんできた。浮かんだアイデアを検証する──その繰り返しが毎日毎時間の仕事となった。

しかし、いくら考えても自分自身で「これだ!」と納得するようなものは、さすがになかなか出てこなかった。  納得できない理由はいくつかあったが、一番大きな理由は、果たしてそのビジネス・アイデアが自分や自分の会社がやるべきことかどうかであった。つまり、ぼくの思い付いたアイデアはどれも、確かに便利な内容だがなにも我々が率先するまでもなくほかの会社でも十分できるだろう、というレベルのものばかりだったのである。

新規事業を立ち上げるにあたって、ぼくには一つのセオリーがあった。それは小さくテストして大きくスタートするというものである。テストを開始するためには、事業のモックアップ(雛形)を開発しなければならない。

事業計画というと、一般的には五年ぐらいの収支予定を記述したシートをもってそれとするのだが、ぼくが書く事業計画はいつも違っていた。商品計画、販売計画、開発計画、組織計画そして資金計画という各部分を入念に仕上げなければ気が済まないのである。実際、資金以外の上記の計画をしっかり作らなければ、本当の事業計画はできないはずだ。  商品計画には商品の詳細、特徴、既存競合商品との比較などいわゆる後に商品カタログになるようなもの。販売計画はどれほどの人員で、どのような宣伝方法で実際に販売するのか、それにもちろんそのための経費。開発計画は開発が可能であるかどうかの技術的な検証。開発のためのマンパワーの補充。さらには大まかなデザイン。そしてそれらにかかる経費。組織計画には、これらを実現するための人材の配置、指揮の方法、権限の範囲など。以上のシミュレーションがすべて完了しなければ、どれほどのお金がいつ必要で、逆にいつ利益がどれほど出るのかがは全く検討がつかない。

  • 当時「第三次ベンチャーブーム」でベンチャーへの無担保融資を積極的に行っていた銀行からの資金調達
  • 国重さんという気の合う担当者がいた住友銀行からの2.5億円の巨額融資を皮切りに、その後7つの銀行から総額20億円の借り入れ

一般的に個人保証はするものでないとよく言われる。しかしぼくは起業家である。別に自分で起こしたその会社とは運命共同体だなどと安っぽい精神論を振りかざす気はない。  起業はぼくの唯一の表現方法だ。すなわちぼく自身なのである。万が一のことがあって会社が倒産するようなことがあったときは、仮にサインなどしていなくてもぼくは人生の失敗者になる。ならばためらう必要など何もない。ぼくはすぐにサインをした。

住友の話を皮切りに、あっけなく資金調達は完了した。結局九六年中に銀行からおよそ二〇億円、リースではおよそ一〇億円を調達することになった。それまでの借入れがわずか数千万円でしかなかったのと比べると雲泥の差である。結果、ぼくは、カネの心配を一切しなくなった。開発とマーケティングのことばかりを考えるようになった。  賢明な読者は、ここでもう気づかれるかもしれない。ぼくの失敗の原因が実はここにあった。  多くの金融機関はぼくにカネを貸したのではない。ある意味で最初にバックについた住友銀行の看板に貸したのである。そしてぼくは住友銀行という法人の信用を完全に勝ち取ったわけではない。「ベンチャーを育てよう」というこの時の住友の戦略の元、国重さんという個人の信用を一時的に勝ち取ったに過ぎなかったのである。  この「ずれ」が二年後、ぼくの首を絞める。しかし、九五年末のこの時点、「新事業」という熱にうかされ始めたぼくに、そんな想像が働く余地はなかった。

  • 浜田さんという恩人がいるアスキーとの契約

我々は仕方なく、リース物件および不動産のアスキーに対する又貸しの許可だけをもらい、ハイパーネットが彼らと交わしたのとほぼ内容の同じ契約を、アスキーと交わすことにした。これは、結果としてみれば、アスキーの使用する不動産や設備の保証を当社がする形である。  これでなんとかアスキーと一緒に仕事ができる環境が整った。災い転じて福となすだ。ありがとう、浜田さん。このときぼくは本当にそう思っていた。  しかし、この契約が後にいくつかの問題を引き起こすことになる。

  • ソロモンと野村が手を組んでハイパーネットのナスダック上場に向けて動き出したが、思ったよりも事業が伸びず、実態以上の評価をされていることを意識できていなかった
  • 日本でも事業が立ち上がりきったわけではないのに、米国での展開やナスダック上場に浮かれてしまっていた

事業計画上ではすでに億の単位の売り上げを上げていなければならなかった。ところが現実の売り上げはわずか月数千万円。予想と実態の落差は、そのままぼくの焦りにつながっていた。この焦りはそのまま、いまある売り上げに対する軽視を生んだ。これは現時点でカネを出してサービスを利用してくれるクライアントに対する軽視でもある。  ──あの野村とソロモンがアメリカで公開しましょうといってるんだぜ。天下御免のお墨付きだ。なのにこんなすばらしいシステムに参加しない企業がいるなんて。まったく信じられない。うちに広告出さないのは馬鹿としかいいようがないね。参加して広告を出すのが当たり前なのに。え、そう思うだろ。  当時、部下を連れて飲みにいくと、ぼくはこんなことばかり言っていた。うちのシステムに賛同してわざわざ広告を出してくれている企業に対する感謝の念はほとんどなかった。  ぼくは、自分が「だぶだぶの高級スーツ」を着ていたことを、すっかり忘れていた。ぼくの自意識は肥大し、もはやその「スーツ」をやぶらんばかりだったのだ。

米国の売り上げの方が大きくなってしまうかもしれないな。とにかくはやいところ、クライアントをつかまえなきゃ。まずは米国の広告代理店を開拓しよう──。日本の市場も固まらないうちから、ぼくは海の向こうでの成功を信じきっていた。  企業というのは、こうした経営の脇の甘さから簡単に崩壊するものだ。今では、ぼくにもそれがはっきり分かる。やれナスダック公開だ、米国進出だと浮かれていたのとちょうど同じ頃、ハイパーネットの経営には早くも暗い影が立ち込め始めていたのだ。  もっとも、それが暗い影であることに気づいたのは、会社がつぶれてからだったのだが。

  • 外部から採用した人物をいきなり取締役にしたことで、社内から不満が上がる

今まで、ハイパーネットの短い歴史の中で、外部から入社していきなり取締役になった者はいない。一番最近取締役になったのは筒井だが、彼にしても社員として最低一年は仕事をしてから、役員に上がった。

問題は、その直後に起きた。  この人事に対し、多いに不満を感じている人間がいたのだ。中山である。

ねじれた感情は元には戻らなかった。彼は辞表を提出した。そして最後にこういった。 「ぼくは夏野さんに対して嫉妬しているのではない。ぼくは板倉さん、あなたに嫉妬しているんだ。たとえば仕事でハイパーシステムの説明をする。そうすると、どこへ行っても、すばらしい、誰が考えたのかと質問される。その度にぼくはあなたに嫉妬した」  規模の小さなベンチャー企業の場合、たった一人の社員の存在が大きな意味を持つことがある。だからこそ、優秀な人材に逃げられるのは、経営者として最大の失態の一つだ。そして、ぼくはその失態を犯してしまった。中山は社内で数少ないぼくに苦言を呈することのできる男だった。しかしもう遅かった。九六年八月のことである。

  • アスキーにいた浜田さんが突然やめてしまった

だいたい向こうには浜田さんがいる。大丈夫だ。 しかし六月、前触れもなく、突然浜田さんがアスキーを辞めた。 何があったのかは分からない。アスキーでは有力な役員や幹部社員が飛び出すのが珍しくない。 ぼくもときどき冗談で、そしてちょっぴり本気で、「浜田さん、辞めないで下さいよね」と聞いたものだ。 「辞めないから安心しろ」と彼は笑っていた。 冗談は現実になった。 そしてそのときはじめて気がついた。おれはアスキーではなく、浜田さんその人と仕事していたんだ。 企業ではなく、個人と仕事をしていたんだ──。

  • ハイパーシステム側にばかりリソースをかけている時にIMS側で重要顧客である電通とトラブルが発生

ぼくはしばらくの間、IMS事業にあまりかかわっていなかった。が、IMSは順調に受注を伸ばしていた。ハイパーシステムがマスコミに注目された相乗効果もあって、顧客数が右肩上がりに伸びていたのだ。ぼくの仕事といえば、営業面やシステム稼動の面でトラブルが発生したときのクレーム処理くらいしかなかった。本音を言えば、ハイパーシステムがらみの仕事の忙しさにかまけていたのである。経営者としてIMSに目が行き届いていなかった。  事故は、そんなときに起きた。

  • 尊大になっていた&IMS事業を大事にしていなかったため、慰謝料を払わずに顧客を逃すというミスを犯した

電通ワンダーマンからのIMSの受注は激減し三カ月とたたずにゼロになってしまった。素直に謝罪しない取引先には仕事を出さないということだろうか、とぼくは思った。最初の非は確かにこちらにあったが、釈然としない気分だった。  ただ、後日この件に関して、知人に相談したところ、とにかく目の前の理屈よりも先に慰謝料を払ったほうが、ビジネス上は得策だと諭された。確かにそのアドバイスは正しいと今では思う。しかし、このときのぼくは、本当にそれでいいのだろうかと、かなり憤慨していた。  ハイパーネットは、広告代理店の単なる下請ではない。世界に存在を示せるようなベンチャービジネスをこれから展開していこうというのだ。こんなところで目先の利益のために納得のいかないおカネは払いたくない──。すでにハイパーシステムの事業展開と、ナスダック公開を見据えた米国進出、この二つにすっかり頭が占領されていたぼくは、そう思っていた。  まったく愚かな話である。本当の経営者ならば、数年間かけて育ててきたIMSをもっと大切に扱うはずだ。ビジネスの社会で、その場その場の取引が理不尽かどうかは必ずしも問題ではない。問題は結果なのだ。ぼくは、自分の論理とプライドと引き換えに、大事な客を失ってしまったのだ。これはなによりの損失だった。

  • ハイパーシステム側でも広告の結果データが出力できないトラブルが発生

ナスダック公開の話が進んでいた。ハイパーシステムの真価を問われる大切な時期なのである。 事故はよりにもよってそんなときに起きたのである。 広告の効果が測定できないとわかると、広告を継続してくれる予定だったクライアントのほとんどが、広告を出す意味がない、と一〇月からの広告を見合わせた。 もはや売り上げの絶対額が小さすぎるなどと贅沢なことをいっている場合ではなかった。 ハイパーシステムの売り上げそのものがほとんど無くなってしまったのである。 事態は緊急を要した。ぼくは社内スタッフと協力会社の尻をたたき、システムの改善を促した。 システムは二週間ほどで復旧した。 だが一度失ったクライアントの信頼を取り戻すのは簡単ではなかった。 しかもこうしたシステム・トラブルは、九七年に入ってもなお、頻繁に起きたのである。

  • ビル・ゲイツから声がかかり、マイクロソフトが買収してくれるという噂を聞く

  • 外部委託するはずだった業務を結局全て自社でやることになり、自社で対応できる規模を超えていることに気づく

プロバイダー業務の問題。広告営業の問題。現地でのシステム開発の問題。いずれの作業も最初は米国の企業と提携して外部委託するはずだったのが、スタートとほぼ同時にごたごたが起きて、結局自前でやる破目になった。が、日本でも一社でこなすのは難しいこれらの業務を、ハイパーネットのような弱小ベンチャーが異国の地で単独で展開するのは所詮無理があった。  考えてみれば当たり前の話だ。でも企業の失敗というのは、たいていの場合、目の前の「当たり前」が見えていないときに起きるものだ。それにしても米国での事業展開がこんな状態なのに、一方では日本でナスダック公開会議を連日のように開いていたのである。

  • ナスダック上場が延期になる
  • 資金繰りが厳しくなってくる中、ハイパーシステムのOEM提供事業にかじを切る
  • 同時に住友銀行から融資を50億円してもらえると口約束で思い込む

「ぜひ行って話を聞いてきてください。融資はその上で、で結構です」  ぼくのこの一言があとでとんでもない事態を招くとは、このときは思いもよらなかった。 (後日、国重氏より次の証言を得た。「このとき、調査部長や私が五〇億円と言ったとすれば、それはあくまでこの事業にはそれくらい資金がかかるのではないか、という意味であり、五〇億円を融資しようと確約したわけではない。板倉氏はこちらの発言の意味を取り違えたのでは」。)

  • 銀行が貸し渋りの時期に入った & マイクロソフトと裏で話をしていたことによって融資の話がなくなる

「いろいろ話したなあ、とにかく面白かった」 いったいマイクロソフトはなにを話したのだろう。こんな曖昧にものを言う国重さんは初めてだ。 ぼくは少々不安をおぼえた。 「で、なんていってました?」 「うん、先方はハイパーシステムの特許が気になっているみたいだねえ。事業については興味がないみたいだけど」 「特許ですか」 「うん、つまり権利関係だね」 「はあ」 何が言いたいんだ。ぼくはいぶかしんだ。 マイクロソフトが新事業の特許や権利に関心を持つのはいつものことである。 そんなことはとうに承知だ。それよりうちへの融資の話はどうなったんだ。 そのまま黙っていると国重さんは意外な言葉を口にした。

「で、板倉くん。もしマイクロソフトが同じような事業をやるっていったら?」 突然、目の前で話している国重さんの姿がはるか遠くに離れたような気がした。手を伸ばしても届かないところにいってしまったような気がした。

ぼくは勘違いしていた。国重さんは親しい仕事相手ではあったが、「友達」ではなかった。 いざとなれば、国重さんという「個人」から、住友銀行取締役日本橋支店長という「企業人」に、チャンネルが変わるのだ。 個人の感情と企業の論理。どこでどう線を引くかということが、ぼくにはわかっていなかった。 会社勤めをしたことがなく、「組織」というものに対する本質的な理解がなかった。

ぼくの想像に過ぎないが、住友銀行は、マイクロソフトにリサーチをかけた時点で、以上の構造に完全に気づいたのではないだろうか。 マイクロソフトは、ビル・ゲイツ会長と面会した九六年一二月時点でかなり詳細な調査を当社に関して行っていた。 その後、ハイパーシステムと似たような発想のサービスを特許に抵触しない形で独自に開発できるかどうかくらいは、あのビル・ゲイツのことだ、おそらく調べているだろう。 その結果、ハイパーネットに利用価値なし、とマイクロソフトが判断し、その情報が住友銀行に伝わったとすれば、当社を同行が見放したのもうなずける。 そう推理すると、当時は腹が立ってならなかった調査部長の「マイクロソフト云々」の言葉も、むしろ極めて妥当な発言だった、ということになる。 残念ながら、九七年春の時点のぼくに、ここまで思いを巡らせるだけの能力も余裕もなかった。 それは結局何を意味するのか。実は、うすうす感づいていた。もしかしたら……、この頃、ぼくは他ならぬ自分に対して、一つの疑念を抱いていた。

おれは、経営者に向いていないのではないか。

  • 経営者としての自信が失われていく

会社がつぶれた後に何人かにこんなことを言われたことがある。 「板倉さんはさ、アイデアを最初に考え出して起業するまではいいんだよね。でも、起業したあとに組識を作って安定的に経営するのはあんまり向いていないんじゃないの。そもそも飽きっぽいし」  ベンチャー大国米国では、アイデアを出し起業するいわゆる「起業家」とその後実際に経営を行う「経営者」が別人であるケースは、珍しくない。要するにこの二つの仕事は性格がまったく異なるものなのだ。両方の資質を持っているならばともかく、片方だけの場合、どちらかの仕事に専念した方がよいに決まっている。  ぼくもそうなのかもしれない。アイデアを思いついて事業化するまでがぼくの仕事。そのあと実際に経営するのは、他の人間に任せればいいのかもしれない。

ぼくが自分を経営者に向いていないのでは、と思ってしまう出来事はいくつもあった。  ニュービジネス大賞の受賞もそうだ。身内から「調子に乗るな」と批判を受けた。ぼくは単に会社の宣伝になればよいと思っていただけなのに。でも、周りはそう思っていなかった。「目立ちやがって」というわけである。これではフェラーリを買ったときと同じだ。  結局、つきつめればぼくが悪いのだ。社長としての自分のイメージコントロールをうまくできなかったのだ。それは個人の自由だ、と突っ張った時点で「社長失格」なのである。  OEMの開始についても社外はもちろん、社内からも方針がころころ変わると批判を受けた。

金策に走りまわり、海外事業の見直しやOEM化など新規事業を直接担当していたぼくは、一日の大半を外部の人間との交渉ごとでつぶしていた。幹部社員を除くと、社内スタッフと顔を合わせることは、ほとんどなくなっていた。  当時のハイパーネットの社員数は八〇人。スタート時の四人に比べれば、飛躍的に増えていたものの、この程度の人数ならば、経営者は各社員の動向を正確に把握しておかねばならなかった。

  • 短期融資(ロールオーバー)で借りていた資金を「いったん」返してほしいと多くの銀行に言われる

さて、ちょうど増資が成功した三月初め。取引銀行から相次いでアポイントメントがあった。 最初に連絡してきたある銀行はこういってきた。 BIS規制の関係で貸出資産を圧縮しなければならないので、三月末の(銀行側の)決算をまたぐ間、“〝 いったん”〟 可能な額を返済してほしい。 次に連絡のあった別の銀行はこういってきた。 御社に対する融資残高がだいぶ増えてきたので、この時点で信用確保のため“〝 いったん”〟 一〇日間ほどでいいから可能な限りの返済をしてほしい。 他の銀行のせりふも基本は一緒であった。 どこも狙い澄ましたようにほぼ同じ週に連絡してきて、三月末までに可能なかぎりの返済を“〝 いったん”〟 お願いしたい、と言ってきた。 ちなみに住友銀行も同じようなことを要求してきた。 前にも書いたが、当社への銀行からの融資はすべて短期融資である。 しかも無担保で、当社の株式のみを資産として所有しているぼくの個人保証によるものだった。 ほぼ三カ月ぐらいの短期融資を期限がくると形式上いったん返済し、当日中に再び同額の融資をしてもらう。 このロールオーバーという手法でハイパーネットでは融資を継続してきたのである。

  • ロールオーバーは行われず、「いったん」返した資金は再融資されなかった

三月上旬に今回の「いったん返済」の件で国重さんに会ったとき、彼は「四月に元々あった五億円まで融資残高を戻す」とぼくに約束してくれていた。  二月の調査部の件で明らかに態度の変化した住友銀行であったが、それでもこの時点で依然当社のメインバンクであることに変わりはない。うちの資金繰りを圧迫するようなことだけはまずしないだろう。ぼくはそう安易に考えていたのである。もっとも、この約束はぼくだけが聞いたわけではない。当社の財務スタッフも、住友銀行から直接この約束を担当者レベルで聞いて報告していた。  甘かった。

いつものように挨拶をして話しはじめようとすると、国重さんが慌ただしく切り出した。 「あのね、板倉くん。あの融資の話、だめなんだ」  ぼくは彼が口にした言葉の意味がすぐには理解できなかった。一瞬、二カ月前の五〇億円融資のことをいっているのかとも思った。そんなはずはない。そもそもあれは調査部がOKを出さない限り進まない話だ。  ということは、え、うちへの融資額を四月には五億円に戻すって話してた、ついこの前話してた、こっちの融資のことか?

「彼だったらIMS事業を三億円ぐらいで買ってくれるんじゃないかなあ?」 「?」 「ただ、板倉くんの持っている株を全部担保に入れるという形が必要だと思うけどね」  もはや言葉が出なかった。  彼? 世間でも名の通った有名起業家の名を突然彼は口にした。エンタテインメント系の流通サービス業を手がけるこの人には、ぼくも何度かお会いしている。たしか住友銀行がメインバンクだ。それにしても、なぜここで彼の名が出てくるんだ?  おそらくぼくはとんでもない目つきで国重さんを見ていたのに違いない。国重さんの表情でそれが分かった。でもこちらの動揺を、憤怒を、いま悟られてはいけない。おれは社長なのだ。ハイパーネットの経営者としてこの場を何とか解決しなければならないのだ。 「それ、どういうことですか?」  ぼくは平然を装い、まずは話を聞く事にした。 「確認したわけじゃないんだけど、きっと彼だったら支援してくれると思うということだよ」  支援?  なんだそれは。そんなことを頼んだ覚えはないぞ。  一瞬、ぼくの中で何かが切れた。眉間に皺が寄った。こめかみの動脈がひくついているのが分かった。喉の奥から込み上げてくるものがあった。  次の瞬間、ぼくは理性を取り戻した。まずい。ここで怒鳴ってはまずい。 「ふーん。……そうですか」  とにかく考えるふりをした。とにかく今日のところは引き上げよう。こちらに次の一手はなかった。 「少し考えてみます。とにかく融資の話はまったく駄目なんですね」 「うん、そうだね」 「わかりました」  もう一度頼んでみるにしてもすがってみるにしても、一度頭を冷やすべきだった。 「それじゃとりあえず今日はこの辺で」  そっけなくそう言うと、ぼくは住友銀行をあとにした。  この日を最後に、国重さんと直接会うことは二度となかった。

  • 資金繰りに奔走していて、社員とのコミュニケーションがなくなっていた

社員たちになんの目配りもできていない。ぼくはその事実に気がついた。 この四カ月、ぼくは目先の資金繰りと業績ばかりを気にしていた。 社員とのコミュニケーションはおそろしく減っていた。 役員達と仕事上のつきあいはあったが、彼らが何を考えているかまでは気が回らなかった。 後日、夏野が吐いた言葉にそれが現れていた。九六年の終わりごろから、自分は頼りにされていないと感じていたという。 配慮が足りなかった。実際には、ぼくは彼を大いに頼りにしていた。にもかかわらずそう思われていたのである。

ぼくは愚かだった。ヒトは企業の最大の財産だ。特にうちのような中小企業にとっては、最後はカネじゃない、ヒトだ。 でも、ぼくは資金繰りに追われて、その基本を忘れていた。

かつてぼくは一日一回以上必ず社内の全部門に顔を出し、なるべく多くの社員と話をするよう心がけていた。仕事に直接かかわる話はもちろん、趣味の話や家族の話などもよくしていた。週に最低一日は夕食を社員と一緒にとる機会を設けていた。

教訓

九七年、時代の波がプラスからマイナスに転じたことで、ぼくとハイパーネットの「栄光」も「挫折」に転じた。マルチメディアブームは一年足らずで終息し、インターネット広告市場は、当初予想したほど成長しなかった。ベンチャーブームも沈静化した。そして、銀行は第二の改革に手をつけた。国際的にその水準の低さを指摘されていた自己資本比率を上げるために、貸出債権の圧縮に乗り出したのである。いわゆる貸し渋りの始まりだ。インターネット広告の収入が思ったほど伸びず業績が停滞していたハイパーネットは、取引銀行の融資引き揚げ攻勢にさらされた。売り上げをはるかに上回る融資を受けていただけに、ひとたまりもなかった。多額の負債を抱えたまま、九七年末、破産した。

ぼくは日本の企業社会において経営者を務めるうえで、致命的な欠陥を有していた。「組織」に対する理解がまったくなかったのである。社内人事、社外営業、金融機関との付き合い、広告主との付き合い、マスコミへの対応、そしてプライベートでの振る舞い。どの場面においても、企業や社会といった組織に対する根本的な理解を欠いていたがゆえのミスを、ぼくはいくつも犯してきた。そしてある意味で、これらのミスの集積が倒産につながったといっても過言ではない、と今では思っている。

間違っていたのは、当然ながらぼくの方だ。組織とそこに属する人間が逆風の環境下でどのような行動をとるのか冷徹に予測する必要があったのに、それができなかった。それこそ、ビル・ゲイツのように、個人主義的な自分を見失わずに一方で組織の論理を理解し、企業経営を推進できるだけの技量が、結局ぼくにはなかったのである。

  • 個人に依存して仕事をしない、組織の都合で個人的な関係では動けなくなる可能性が常にあることを肝に銘じる
  • 口約束は噂は信用しない
  • 尊大にならない
Last updated on Feb 21, 2024 00:00 JST
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