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99/ できないとは言わない。できると言った後にどうやるかを考える

SHIFT創業者丹下氏が2014年に出した本

SHIFT創業者丹下氏が2014年に出した本

丹下氏の3か条

「できない」を「できる!」に変えるとき、僕は3つのステップを乗り越えるようにしています。

1.同じ人間だ。彼にできて自分にできない理由はない

2.圧倒的なコンセプトを考える

3.ゴールに向かって努力し、背中を見せることで周囲をシフトさせる

「このサービス、絶対にエロい!」「確実に稼げる」 ビジネスがモノになるかどうか、判断する尺度はこの2つしかない、というのが今の僕の持論。 2つのうち1つを確信したら、迷わずにとことん前進あるのみ。他人の言うことに耳を貸したらダメ。それ以外、エッジの効いたサービスを生み出す方法はないし、「できないこと」を「できること」に変える方法はない、と考えています。

ゴール設定が最大のカギ

「最終的に皆の共感を集められるゴールを描けるかどうか?」 「できないこと」を現実化する最大のカギは、じつはこの点にあります。 もしも、それがありきたりのゴールで、何かの焼き直し版なら、誰にもワクワクしてもらえません。また、発案者の我欲がプンプン臭っていたら、すぐそっぽを向かれるでしょう。 困難だけど、チャレンジし甲斐があるゴール。みんながハッピーになれるゴール。そんなゴールだけが、人びとの注目や共感、協力を集められるのです。

「とりあえず、できると言ってしまい、具体的な方法は後から考える」というのがいつもの自分のやり方。コンセプト作りも同じです。 大切なのは、他の誰もまだ言っていないことを自身の口で言うこと。そしてその言葉を支える根拠を、どこまでも深く掘り下げること。そうすれば、「最終的に皆の共感を集められるゴール」が見えてきます。

品質保証は日本人の得意技

どちらも発想の源泉は、「日本人にしか思い付かないもので、世界と勝負したい」という願望。 グローバル競争の舞台で勝敗を分けるポイントは「差別化」です。だからなるべくライバルのいない、日本人が得意な土俵で戦いたいと考えました。土俵のひとつが、ソフトウェアのテスト事業。国内の競合他社は皆無ではありませんが、数も少ないので当社が圧倒的に優位な地位を占めている、という自負があります。 さらに、日本の品質保証の技術は世界でも図抜けています。「メイド・イン・ジャパン」のブランドは、少なからず品質保証力が担っているのではないでしょうか。テスト事業は、じつはとてもジャポニズムなビジネスなのです。

こうしたセンシビリティーは日本人の持つ大切な「レガシー(遺産)」。そして、世界に通じるイノベーションとは、多くの場合、レガシーな産業から生まれるものです。

TOTOのトイレ用擬音装置「音姫」もしかり。米国進出した当初は営業に苦戦していたそうですが、駐在員の奥さんが使用しているのを聞いて、現地の女性たちがびっくり。トイレの音が恥ずかしいものだ、という概念が初めてそこで生まれ、ヒットにつながったのだとか。 おそらく、日本人は海外の人びとが気付かないようなことに気付く、センサーのような力を持っているのでしょう。ならば、品質保証、つまりテスト事業は世界出荷も可能な、日本独自のビジネスになっていいはずです。

丹下氏の原体験

まずはシフトの起点となった、自分の原体験から振り返ってみたいと思います。 「自分を認めてほしい」という渇望は子どもの頃の体験から生まれました。とくに母親の影響は絶大なものがあったように思います。

能天気に見られがちですが、じつは子どもの頃から深い孤独感に囚われて生きてきました。いつも、「誰かに存在を認めてほしい」「自分が何者なのか知ってほしい」という渇望を抱いています。 その枯渇感が僕に会社を作らせ、イノベーションへと狩りたてたのかもしれません。 というのも、幼い頃から目を掛けられ、心配され、周囲の愛情を一身に受けているのはつねに3歳上の兄でした。

一方、僕は親戚にも「マサル」という名も覚えてもらえず、「タクミちゃん」と呼ばれていたくらいです。ちなみに「タクミ」は兄の名。 両親は兄のためにわざわざ引っ越したり、進学校受験のための教育に熱を上げたりしていましたが、僕はどちらかといえば、放りっぱなし。もともと素直な性格だったので「この子は放っておいても育つ」と思われたのかもしれません。しかし、引っ越しのたびに友だちと別れなければならず、さほど教育投資もしてもらえない自分を顧みると、「僕ってあんまり愛されてないかも」と正直心細くなったものです。 その心細さはやがて、自分の性格に日なたの部分と陰の部分とを生み出しました。

丹下氏の大学時代

広島県神石郡という小さな町で生まれ育ち、大学には入学したものの、アルバイトと合コンに明け暮れていた僕。ロン毛で普段着のまま就職面接に臨み、面接官を鼻白ませていた僕。 そんな僕が、就職の挫折、フリーター生活から大学院の合格を経てビジネスを立ち上げるようになったのは、「誰かに自分を見つけてほしい」「認めてほしい」という渇望があるからです。

大学時代は完全な遊び人。バイク7台を乗り回すほかは、ひたすらコンパに精を出す日々を送っていたのです。就活シーズンに入って、同級生の顔つきが俄然、変わっていくのに、僕はロン毛のまま。しかもなんと普段着で面接を受けたりしていました。 「外見で人を判断するような企業なんて、こっちからゴメンだぜ」 などと青臭い屁理屈を心中、ほざきながら……。 大手企業を落ちまくり、さすがにヤバいな、と思ったときには4回生になっていました。思い余って、同志社大学の大学院を受験したのですが、あえなく不合格。そもそも成績だって下から数えたほうが早いレベルだったので、あたりまえです。

  • 新卒でコンサルタントになったモチベーション

もちろん、もっと大きな夢もありました。僕はポルシェに乗りたかったし、可愛い彼女に素敵なプレゼントを贈りたかった。そして将来はやはり、起業したかったのです。

  • 起業の夢を持ったまま、就職

「30 歳までに起業する」というのが、当時の自分自身との約束。もっと歳を重ねれば人脈、知見はより蓄積されることでしょう。でも、体力や情熱は年齢とともに落ちていく。「経験値の上昇ラインと体力の下降ラインが交差するのが 30 歳」というのが自分なりに描いた未来予想図でした。 となると、会社員生活は5年間。その間に、経営における3つ大ノウハウ、「お金の稼ぎ方」「人のマネジメント」「経理や財務」を身に付けなければ。 30 歳までに、もうひとつ実現したいことがありました。「トップサラリーマンになること」です。 といっても、トップサラリーマンの具体像が見えていたわけではありません。「年収1000万円稼ぐこと」がとりあえずのゴール。社外に出たとき市場価値を評価してもらうには、年収が一番わかりやすい尺度だと思ったのです。

  • 会社が作りたいのに理由はなかった

「30 歳で年収1000万円」という目標はすでに達成済みです。次は、「 30 歳までに起業する」という、自分との最大の約束を果たさなければ。高額のサラリーをあきらめるのはもちろん、抵抗がありました。しかし、「決意したら、あとは思考停止して実行する」のが自分のやり方。

なぜ、せっかくのオファーを蹴ってまで危なっかしい道を——? いろいろな人に聞かれましたが、「会社を作りたい」という願望に理由はありませんでした。「空を飛びたい? いったいなぜ?」と聞かれても、「飛びたいから」としか答えられない。そんな感じでしょうか。「君には難しいんじゃない?」と言われるようなことを「ほら、できるよ!」とやってのけたら、自分の存在意義が証明できるような気がしたのです。

起業したて

貯金は200万円ほどしかありませんでしたが、折しも定年を迎えた父親から退職金をせしめていたのです。 子どもの頃、教育資金はほとんど兄に注ぎ込まれていましたから、「よっしゃ、きた。僕が母親に仕返しするチャンスだ」と、すかさず母親に電話しました。 「会社の設立資金が必要なんだ。いいじゃん、儲かったら返せるんだし。明日振り込んで」とかき口説き、 退職金2000万~3000万円のうち、850万円を送ってもらいました。 合計で1050万円。実際に資本金に充てたのは700万円。残りの350万円のうち200万円をポルシェの頭金にしたときは、さすがに周囲からドン引きされました。

みんなが働いている昼日中、「笑っていいとも!」を観て笑っていた自分。激安スーパーで安いひき肉を大量買いしては、小分けにし、冷凍保存していた自分。ミクシィでナンパしていた自分。 誕生日は9月 22 日です。このままいくと無職のまま 31 歳を迎えてしまう……。慌てて法人登記を済ませたのが2005年9月7日。「 30 歳で起業」を、ギリギリのタイミングで守り切ったというのが正直なところでした。

同時並行で続けていたのが、ビジネスオーディションへの応募です。起業当時、助成金欲しさにありとあらゆるオーディションを見つけては、 プランを送り続けていたのでした。

起業してしばらくの間は、110万円の貯金を死守するのに精いっぱいでした。自分ひとり食べていくのさえやっとだというのに、社員を雇うなんて論外というものです。ところが、会社設立の翌年、2006年6月に、そんな甘っちょろい経営感覚が根底から覆される事件が起きました。

「ところで丹下君の会社って、社員は何人いるの」 「いや。僕、ひとりですけど」 そう答えたとたん、倉橋さんは怒り出したのです。 「ひとりでやっている会社なんか、今すぐやめろ! そんなの会社じゃねえよ!」 彼に言わせると「社員のいない会社=社長の信用力ゼロの会社」だそう。他人も口説けないような経営者など経営者じゃない、ただの個人事業主じゃないか——まさしくその通り。

恥ずかしながら、それまでの僕は「会社を作る」ということの意味をまるで理解していませんでした。 「会社」とは他人を巻き込むことで、初めて成立する。だから、人を魅了するような熱い大志を抱かねばならないし、ビジネスを回して従業員の生活も保障しなければならない。規模は小さくとも、社会の公器としてなんらかの責任を果たさなければならない。 優秀な人材や関係先、社会の協力がなかったら、本当に素晴らしい「できそうにないこと」は「できること」になりません。

最初の5年

「このシミュレーションツールって、すごいんだぜ。ビジネスグランプリでも優勝しているし。これで一緒に世界を変えよう、な」 もちろん、本気でそんなことを思ってなどいやしません。ただ社員が欲しかっただけ。

こうして、5人の創業メンバーが揃いました。

そんな状態が5、6年も続いていたでしょうか。さすがに自分の中では嫌気が募っていました。 資金繰りはとくに大きな問題も見当たらず、赤字を出しているわけでも、社会に迷惑をかけているわけでもありません。でも、せっかく起業したというのに、気付いたら目の前の仕事に追われている。世の中に何のインパクトも与えていない自分が不甲斐なくてしかたありませんでした。

テスト事業との出会い

その当時、前の会社の上司たちが、よりエキサイティングな仕事を求めて楽天に流出していました。彼らから「丹下君、どうせ暇なんでしょう。うちのテスト事業をコンサルしてくれよ」という連絡をもらったときは、涙が出るほどありがたかったものです。

「今までのコンサル業務はもうやめよう。このテストの仕事、膨大に需要があると思うんだ。コンサルティングだけでなく、実際にテストを請け負えば、うちならではの価値が出せると思う。やろうよ」 「でも俺ら、テストなんてやったことないですよ」 「俺たちなら絶対に大丈夫。やると決めたら、あとは時間が解決してくれるよ」

しばらくは、どういう方法論で彼らがテストを行っているのか、わけがわからず、頭を抱えていました。ところがインタビューを続けるうち、はたと気付いたのです。彼らに特別なノウハウなどまったくないことに。 「ちゃんとログインできるか」「ショッピングカートに商品が入れられるか」を確認してエクセル表を作るという、超単純作業を続けているだけだったのです。

成長スピードに、品質保証のノウハウの蓄積がついてゆけなかったのでしょう。中でも楽天は、外注先の言い値が適正か検証する暇もないほど繁忙をきわめていた様子でした。驚くことに、テスト業者に支払われるひとり当たりの料金は、プログラマーのそれより高かったのです。

ブラックボックス化されている状況を、プロセスの仕組み化・IT化によって効率化する——基本原則は、これまでやってきたコンサルティングの仕事と同じです。 まず、さまざまなテストの共通項を洗い出して標準化するとともに、ひと通りの応用ツールを編み出しました。属人的な要素はことごとく排除。誰でも実行可能なシステムを組み立ててゆきました。 結局、僕らが受注したことによって、楽天ではそれまで150人でやっていたテスト事業を 80 人で回せるようになりました。年間7億円だったコストはなんと5億に圧縮。「楽天で最もうまくいったプロジェクト」と絶賛されたものです。

toCサービスを2連続で外した後の大ピンチ

一番きつかったのは、2008年 10 月頃でしょうか。 「ところでさ、どうする? この会社……」 会議の席で、創業メンバーからぽつりとそんな言葉が出ました。全員押し黙っています。まるで離婚直前の夫婦みたいな重苦しい空気が漂いました。 「俺はもう辞めようと思う」 「どうせ潰れるのなら、せめてその前に給料を上げてくれ」 今まで苦楽を共にしてくれた仲間にそんなことを言わせてしまった自分——情けなくて、唇を噛むしかありませんでした。 「残ったメンバーで頑張りましょうよ。僕は丹下さんの味方です」 そう言ってくれた社員もいたけれど、精神的には限界に達していました。神経性のピリピリとした痛みをともなう、帯状疱疹という皮膚疾患にも悩まされました。夜よく眠れず、ベッドに入っても数時間で目が覚めてしまうのです。 今振り返ると、うつ病ギリギリという状態だったのでしょう。

Last updated on Dec 04, 2024 00:00 JST
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