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84/ 人生のレールを外れる衝動の見つけ方

モチベーションを超える「衝動」について深堀りをした本

モチベーションを超える「衝動」について深堀りをした本

「本当にやりたいこと」という言葉遣いを避けた方がいい

「本当にやりたいこと」として語られるのは、①世間的に華々しいスポットライトを浴びているものか、②今の自分が「正解」だと思っているもののどちらかです。

「人間が言う『本当にやりたいこと』なんて、今の自分が、たまたま、一時的にそれが一番良い状態だと勘違いしている幻想でしかない」

今の自分がパッと心惹かれているもの──次のタイミングでは違うものになっているだろうもの──を、わざわざ「本当」という重たい言葉でくるんで固定しようとするのは、自分の変化の兆しを見えなくする言葉遣いです〔7〕。

むしろ、私たちに必要なのは、これが「本当に」やりたいことだと、重たい言葉でくるんで固定するのをやめることです。つまり、自分のやりたいことが知識や経験の増大につれて変化するのを許容しつつ自分の将来を模索するには、「本当にやりたいこと」などという言葉遣いを避けた方がよさそうです。

衝動はそれ以外のことがどうでも良くなる非合理的なもの

衝動が見つかってしまったら、かえって将来のことなど──あるいは自分のことすらも──どうでもよくなるということです。それが衝動に駆り立てられた人の姿です。

  • チ。のラファウのような状態

まともな民主主義社会では、ラファウが直面したような破滅の脅威はありません。その代わりに、将来への計画性、数値的な評価しやすさ、すぐ役に立つこと、パフォーマンス(コスパ) が何より大切にされがちです。しかし、そんなものを脇に置いて、とにかく活動に集中させてしまう力が衝動にはあります。普段は関心を抱いているはずのことを忘れ、それらを脇に置かせ、夢中になっている事柄にひたむきにさせる力があるのです。  そして、このひたむきさは、地道な練習を助けてくれる力です。何かに夢中になっているとき、他の人なら苦痛に感じるだろう時間が苦ではなくなります。

「何かを学びたい、身につけたい」と思うとき、衝動がその背景にある方がずっと持続するし、遠くまで行くことができます。今の自分の手が届く範囲を超えて、ずっと遠くのものに触れるために何かを学びたいのだとすれば、きっと「衝動」が必要です。自分でも説明がつかないくらい、非合理な衝動が。

  • 衝動は、自分でも驚くようなもの

衝動の非合理性をよく表わしているのが、「衝動に根ざした行動は、自分でも驚くような行動だ」という特徴です。自分の中に衝動が生まれ、火がついた瞬間、人は自分自身に取り乱すことがあります。思いもしない変化にさらされて、自分自身の首尾一貫しなさ、筋道立った説明のできなさに戸惑うのです。

  • 「それ以外のことはどうでも良い」と思う状態

ドストエフスキーの「地下生活者の手記」の主人公は、「オレはコーヒーを飲みたい。オレがコーヒーを飲むためなら、世界が破滅したってかまわない」という。

偏愛はすべてに 優る。どれくらい優るかというと、そのためなら世界が滅びたって構わないくらい優っている。つまり、自己の原動力たる衝動の根っこには、「究極的にはそれ以外の価値や意味なんてどうでもいい」という気分が隠れているのです。

重要なのは、この「むちゃくちゃさ」にほかなりません。あらゆる物事の価値を疑っても、それでも理由なく残るのが「好き」(偏愛) だという考えに基づけば、衝動の非合理性は、他のことはすべて何だって構わないと言えるほどの破天荒さとして理解できるからです。偏愛を探り当てる上で、支離滅裂さや無根拠さが一種のシグナルになっているわけですね。

自分の衝動を知っている人には、大概のことなら振り回されない泰然自若とした姿勢があります。そういう爽やかで軽やかな雰囲気を、この破天荒な台詞に読み取っておきたいと思います。

衝動は持続性が高い

衝動の極端なまでの持続性です。衝動は、「ナンデ!?」というくらい長持ちする動機なのです。

  • 刺激が多い現代社会では、「強い欲望」は、情動を伴い生まれては消えを繰り返す
  • そのため、欲望の強さではなく「深さ」を探ることが衝動につながる

強い欲望は「他人の視線」を介して生まれ、だからこそ情動の高まりを伴う傾向にあります。

バージスは、「表面から見えないほど奥深く」から生まれて自分を突き動かす欲求を「深い欲望」と呼んでいます〔 27〕。これは、他人を起点に抱かれる欲求ではないということです。常にトレンドや世間的な「正解」が何なのかを気にする「他人指向型〔 28〕」の欲求は、自分の中に原動力を持たないという意味で、「深い欲望」とは言えません。

様々な場所に「これを欲望せよ」と決めてくれる権威や根拠を求めています。具合の悪いことに、どの権威を信じるべきかについての絶対的な基準がないので、その権威そのものも落ち着きなくスイッチしてしまう(他人指向型)。自分が何を求めているかわからないのも当然という感じがしますね。

こうした「強い欲望」系列の見方では衝動に迫ることはできません。そこで注目したのが、欲望の「深さ」です。「深い欲望」は、感情的な刺激を伴わない地味な欲求であり、他人指向型ではなくものすごく個人的な欲求であり、従って表立って見えづらい欲求であるという性質を持っています。要するに、強さの軸で語られるモチベーションが公共的で抽象的であるのに対して、深さの軸で語られる衝動は、個人的で細かく特定化されています。  本書では、個人的で特定化された具体的な欲望のことを「偏愛」と呼んでいます。往々にして人生の「正しい」レールを外れて楽しく暮らしている人が身に着けているように思われる、「きめ細かく特定された、自分自身の(いわば偏った) 好みや興味」のことです〔 41〕。偏愛は他人と共有できないかもしれないし、合理性もないかもしれない。  こうした偏愛の延長に衝動はあります。

衝動が行動として現れたものが「偏愛」

  • 偏愛的な行動から、衝動を探ることができる

偏愛は、衝動が具体的な活動の形をとったときの意欲につけられた名前だ

衝動を知るには、偏愛している具体的な活動を解釈し、適切に一般化された形でパラフレーズすればよい

  • 偏愛とは個人性や細かさが伴うもの

偏愛の視点は、「好き」の細かなコンテクストの違い、質的な違いに注意を向けます。偏愛は、フラットに並べて語ることができるものではないのです。

欲望の「深さ」とは、その実、欲望の「個人性」や「細かさ」のことだと言ってもいいくらいです。

  • とにかく「具体的に」言語化する

一見似たものに惹かれていたとしても、実際には根本的に異なる偏愛を生きている可能性がある。だから、単に自分の特殊な好みに気づくだけでは足りません。  何かを言語化するとは「細かく」「詳しく」語ることです。「鳥が好き」「野鳥観察が好き」「鳥を識別するのが好き」といった理解は、まだまだ解像度が低い。もっと細かく、詳しく語らねばなりません。そうでなければ、偏愛の延長に想定される衝動の姿を 垣間見ることもできません。

偏愛を掘り下げる上で大切なのは、「小説が好き」「洋楽が好き」「料理が好き」「走るのが好き」くらいのよく使う雑な一般論を避けながら、もっと解像度高く偏愛の性質を理解することです。  具体的には、偏愛している活動に携わっているとき、実際のところ、自分は何を楽しんでいるのかを言語化する必要があります。

  • 偏愛を他人に合わせない

もちろん、ネット上で突飛な語りが注目を浴びることはよくありますし、バズったSNS投稿の中には偏愛と言ってよさそうなものもあります。だったら、偏愛をSNSにシェアしたって構わないんじゃないかと思ってしまいそうです。

仮にそうだとしても、偏愛に関する投稿でバズっているのは、面白おかしく書かれていて、いかにも世間ウケする偏愛に限られています。共感を呼ばない偏愛もたくさんあるでしょう。それにもかかわらず、「SNS投稿ありき」で偏愛を掘り下げてしまっては、自分の欲望をタイムラインに合わせて編集することになりかねません。他人に気に入られるように偏愛を解釈する必要はどこにもないはずです。

「自分に素直に」「意地を張ってしまう自分をやめないといけない」というように、周囲から期待される言葉、なんとなく素敵な響きのする表現、それっぽい説明に飛びつくのを避けなければなりません。「それっぽい説明」に留まる限り、他人の欲望や世間的な「正解」に合わせて、自分の心を切り詰めることになります。それでは学びがないし、窮屈でしょう。  それを避けるには、どこまでも具体的で細かく理解することです。

デューイもそう考えていたようで、「かつてプラトンは他人の目的を実行している人を奴隷と定義した」と指摘しています

セルフインタビューで偏愛を探る

自分が何を特に楽しみ、何を特に避けたいと思っているかを 詳らかにすることができれば、自分の衝動に肉薄できる。そのためにできるのは、色々な質問を自分に投げかけることです。「色々な角度から吟味する」とは、そのときの質問の多さを指しています。

セルフインタビューで大事なのは、スルーせずにこだわり続けることです。自分が何かの価値判断を行ったタイミングがあれば、それを逃さずに捕まえ、具体的な問いを無数に投げかけること。飽きるほど時間をかけ、もう十分だと思う以上にたくさん質問をしてください。

心地よさと比べて、違和感や不快感の方はよくわかるので、こちらに注目して調査を進めれば、自分の欲望を見つけられるかもしれないというのです

ここちよさとは、その違和感や不快感を取り除こうとしたその先にそれぞれが見つけるものだと思っています

偏愛を読み解き、解釈するためにはどうすればいいのでしょうか。自分が価値判断をしたときに、何を特別に好んでいて、何を特別に嫌がっているのかについて多角的な質問を行う「セルフインタビュー」をすればいいというのが本章での提案です。セルフインタビューを通して偏愛を掘り下げるためには、自分が実際のところ何を楽しんでいるのかを探る必要があります。

欲望を「欠乏」から見つける

欲望の発見術としての欠乏。刺激に満ち 溢れ、満足した気にはなれる時代において、何に楽しみを見つけるか、どこに自分の欲が向いているのかを知るにあたって、かなりシンプルなアドバイスになると思います。自分の欲望が見えないなら、何かを渇望する状態を一度経由してみればいい。

全体が明るい状況で一つの 灯 を見つけることは難しいけれども、暗い状況で一つの灯を見つけることは 容易いからです

衝動は、計画的というより探索的

  • 衝動は計画的なものではないため、変わっていくことを前提に言語化しよう

多くの人は自力で頑張って言語化すると、言語化に費したコストに囚われてしまって、その言葉を手放せなくなりがちなのです。

時間や労力をかけて言語化すると、「今さらその言葉遣いを変えたり、多様な表現を模索したりするようなアプローチはできない」と思ってしまう。

自分でも納得できるような言葉を持つことは確かに大事です。しかしその言葉が、自分だけ納得している、実際には説得力がない、問題のある言い回しだとすれば、それを後生大事にする理由は、自分の思い入れ以外にありません。実際、大抵の人が自力の言語化で辿り着くのは「それっぽい説明」である場合がほとんどですが、サンクコストに目を奪われて、その言葉が手放せなくなってしまうのです。

未来から逆算的に自分のルートを思い描く「逆算思考」と、捉えどころがないのに自分をガラッと変えてしまう潜在性を持つ「衝動」を比べてみましょう。最も特徴的なのは、逆算思考(バックキャスティング) を用いるキャリアデザインには、計画や事前のルート設定をベースにした「設計的」なところがあるのに対して、衝動と付き合う生き方には、これまでの計画を捨てて、平気で別のルートへと踏み出してしまう「反設計的」なところがあります

仕事観や人生観を確固たるものとして確立し、自分を「ブレない」ものにすることを重視しており、一人の人間の中に、一貫した自己や価値観を想定しています〔 80〕。一貫した自己を想定するからこそ、「人生の目的」や「本当にやりたいこと」という 雑駁 な言葉をなんとなく掲げがちで、キャリア講師たちは「人生の全体のプランを立てよ」と平気で口にします

そもそもキャリアデザインは、「自分の人生を自分で設計する」ことを 標榜 しています。その役割を果たすために、未来の自分が過去や今の自分と本質的に同質的であると前提せざるをえません。未来像から逆算するとしても、今の私が想定可能な範囲で考えるほかないという意味で、未来にいる自分は今の私と質的に同じです。従って、キャリアデザインは、自分の「溜め」を抑圧・無視した上で未来を思い描くことを暗に求めざるをえないわけです。

将来の自分が予期せぬ出会いによって別人のように変わり、自分の評価軸そのものが変化するかもしれないなどとは想像すらしていないのです。その意味で、キャリアデザインは、自分自身で驚くような変化の可能性を抑圧した先に成立するものだと言えるでしょう。

キャリアデザインと違って、衝動から目的を拵える生き方は、過去や未来を基準に決断しません。「将来報われそうだからこれがいい」とか、「自分は必死にこのために学んできたのだから、こういうキャリアがぴったりだ」といった発想は、衝動に基づく生き方からほど遠いものです

では、今の楽しさだけを考える刹那主義かというと、そうでもありません。第四章で論じたように、目的や戦略を重視しています。世間的に見て標準のルートでなかったとしても、今の自分に思いつくベストな目的のために、今ベストだと思う戦略をひたすらに選び続けます。

ここが重要なのですが、キャリアデザインの設計主義的な発想は、この遊びの感覚を台無しにしてしまうところがあるのです。逆算思考で目的を頑強に設定して、それに最適化された活動にすることは、「遊び」を損なってしまいます。

誘惑される力を発揮して色んなことを試すことで衝動が見つかる

〈外向きの流れ〉から影響を受ける感性が衝動の生成にとってとても重要であることは、遊びについて考えればすぐに納得できるはずです。遊びに熱中しているとき、自分の外にあるものが自分を引っ張るように誘われている感覚を抱いています。ある活動に夢中になっているとき、誘惑されたように 惹きつけられ、目を 逸らせなくなっているわけです。外なる対象に自分の感受性が巻き込まれているのです。

自分の内側にモチベーションのきっかけがあるというよりも、環境のあちこちにモチベーションの芽が散らばっている。僕たちが心だと思っているものは、記憶にせよ、行為の動機にせよ、意外と自分の周りにも広がっているのかもしれない

草花に惹かれている人は、実際の花に指先で触れたり、かいでみたり、図鑑や本を読んだり、実際に育てたり……などといった、様々な「試してみる」アクションを、こちらから起こすはずです。うまくいくかどうかは大事ではありません。そういう実験なしに、草花について何かを感じることはできず、従って自分の内側に何かが取り込まれることもない。だから、大切なのは、成否ではなく実験することそのものです。自分の感受性は、心惹かれている人や事柄に対して小さなアクションを起こすことによって初めて目を覚まします。  世界から望ましい流れを受け取ろうとするなら、そのうねりを生み出すためのちょっとした行動や配慮を避けては通れない。そのための小さな実験を通じて、自分を感じやすい自己に育てていくことができる。これが、【衝動を感受しやすいメディアに自分を変える方法とはどんなものか】 ということへの一応の答えになります

内側と外側が相互接続する見方に自己観を転換した上で、望ましい流れを生み出すために気になることについてあれこれ実験することです。それによって、自分の感受性の再起動が見込めます。

Last updated on Apr 03, 2024 00:00 JST
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