Softbank創業者の孫正義さんについて1996年の対談内容を元に書かれた本
1997年時点のインターネットへの見方
- インターネットはビジネスという概念をなくしてしまうかもしれない
時間と距離があればこそ差異が生じ、その結果、商業としての利益が上がるはずなのに、インターネットで結ばれた世界は差異をなくしてしまう。こんな勝手気ままな道具が中心となって出来た世界が、差異があることによって利益が体系化された世界であるビジネスと、バーンスタインが危惧するように、共存できるのだろうか。理屈の上では出来ない。とすれば、インターネットはビジネスさえも解体させてしまうかもしれない。
インターネット以前の日本のハイテク産業での高いプレゼンス
ゴアー論文は、『情報を生成したり、理解したりする能力を強化する新しい技術は常に、文明に劇的な変化をもたらしてきた……』という一文からはじまり、つぎのような論旨を展開した。 ……この意味での膨大な数の、多様なコンピュータが接続された、分散ネットワークは、新しい文明を創出し、情報化時代をもたらす。ジェファーソンとその仲間が民主主義のために戦ったときには、グーテンベルグによって発明された印刷機が威力を発揮した。しかしそれも電子的コミュニケーションと技術革新の前には顔色を失っている。 大きな可能性を秘めたこの情報技術をいかに活用するかに、アメリカの成功はかかっている。その短所をあげつらって逡巡するのではなく、情報のインフラストラクチャーを構築することによって、積極的にこの機会を活用すべきである。
ゴアーのこの論文は一九九一年に書かれている。このときのアメリカは戦後最大の不況下にあり、GMやIBMといった超有名企業ですら不振にあえいでいた。翌九二年一月、湾岸戦争に勝利したブッシュがアメリカ経済界の大物を連れて来日し、アメリカ製品を売り込むため「ジョブズ(雇用)・ジョブズ」と言って頼みに来たころである。ゴアーは未来の産業社会を世界でリードする国は、ブッシュが引き連れて訪日した重厚長大を基幹産業とするのではなく、日本のように軽薄短小のハイテクの分野で、独占的に強い国であることを、アメリカの政治家たちの中で最も早く理解していたのだった。 しかし、それはゴアーのみならず、クリントンを含めたベビーブーマー世代の政治家やビジネスマンに共通する認識であった。なぜなら彼らベビーブーマーたちは、日本製の自動車やテレビやオーディオに内蔵されているハイテクに驚き、これを使いながら、青春期を過していたからである。
ネットスケープにはクライナーパーキンスが経営人材を供給した
「インターネット用ブラウザー・ソフトで八〇% のシェアを持つネットスケープ・コミュニケーションズ社は、元スタンフォード大学教授のジム・クラークおよびイリノイ大学学生のマーク・アンドリーセンといういわば学術コンビによって、一九九四年に創立された。 クラークはシリコン・グラフィックスの創業者でもあり、アンドリーセンはイリノイ大学在学中にNCSAモザイクというブラウザー・ソフトを開発した若くて優秀なエンジニアだ。クラークは、大物ベンチャー・キャピタルのクライナー・パーキンスを訪れる。ネットスケープの商品は、アンドリーセンが開発する予定のブラウザー・ソフトだ。クライナー・パーキンスは、学術組だけでは事業として成功しないと判断し、強力な人材をかき集め、学術組の周囲に配置した。
孫正義の情報産業への一点集中
南部靖之は全方角にビジネスチャンスを求める文字通りのマルチ起業家であり、孫正義はどんな異業種からの誘いを受けても、これに参加せず、全神経を一つの方向に集中させ、禁欲的なまでの一点主義者である。
南部靖之のモットーは「迷ったらやれ」であり、孫正義のモットーは「迷わずにやれ」である。これは、あらゆる事業に手を出す南部と、一つの関連事業にしか興味を示さない孫の経営哲学、いや人生観をよく表しているではないか。
孫正義が大学時代に毎日考えた発明アイデアの例
猛勉強のために睡眠不足となり、気がついたら大学の廊下で寝ていたことがあったという。 そのときの体験から、あるアイディアを思いついた。たとえば、眠っている人を起こす声の出る腕時計。彼は、発明のアイディアが湧くと、カードに書き込む。その数、数百。そこで行きついたのが、 〈外国へ旅行して、外国人と話すのに、いちいち辞書を引くのは大変だ。電卓のように、日本語で入力すると、英語に同時に翻訳され、しかも声になって出る「音声翻訳機」はできないものか〉
まずヨーロッパで英語を鍛えた盛田さん
盛田は、ソニーが発明したトランジスターラジオを売るために、アメリカで生活するわけだが、英語に自信がない。せっかく良い品物をつくっても、売る人間が貧しい言葉しか話せなければ、製品の価値は自分の英語のレベルにしか、お客には思われないだろう。英語をどのように学ぶのか。盛田は、そう自問した。ここはアメリカであるから白人たちとフランクに話せばいいのだが、アメリカの白人には戦争に負けた劣等感もあって、それができない。 思い悩んだ末、盛田はある考えを思いつく。白人相手に英語で話すためには、度胸をつけるしかない。そこで週末になると、ドイツやフランスに飛行機で出かける決意をする。同じ白人でも、アメリカ人とはちがってドイツ人やフランス人なら、英語はネイティブではないから、自分の発音がおかしくても笑われることはないと考えたからだ。わたしは盛田から、直接この話を聞いた。盛田にはこの手のエピソードに、こと欠かないのだが、こうした話が拡大再生産され、盛田昭夫の英語伝説が生れ物語化されたのである。
情報革命のインフラになる事業をやる
二一世紀が超高度コンピュータ世界になる、という彼の信念から生れたものであるらしい。その時、あらゆる人間は、マルチメディアを通して買い物をし、労働をし、会話をし、情報交換をする。そのようになれば、あらゆる人間は、彼が使用するマルチメディアの回路(インフラ)に対し、なにほどかの代金を払わざるを得なくなる。つまり、孫がイメージする究極のビジネスとは、あらゆる人間が、ソフトバンクに情報交換の所場代を払う、そういう支配の独裁的イメージなのである。彼はこの考え方に取り 憑かれている。流行の言葉を使えば、すでに脳内に革命が起こっているのである。 世界一の航空王も、世界一の鉄道王も、世界一の流通王も、あらゆる人間から、所場代を集めることはできないが、マルチメディアにおいて、世界一の回路を押えた人物が現れる日があるとすれば、彼は間違いなく、世界のあらゆる人間から、なにほどかの所場代を得ることが、原理的にはできる。マルチメディア時代あるいはコンピュータ時代の可能性とはそういうものである。同時に、恐ろしさとは、そういうことが可能だということなのである。孫正義は、マルチメディアをそのように理解し、そのような究極のイメージを持ち、ビジネスをしている事業家なのである。
孫の二乗の兵法
論理ではなく直感の究極のイメージから事業をつくる
「自分はアナログ人間だと思っています。論理をつみ上げて事業をイメージするのではなく、まず直感に究極のイメージが湧くのです。そういう自分がなぜ、デジタルの領域の事業をするのかと言えば、それは、人間の頭脳から脱出して出来上がったコンピュータというもう一つの頭脳を最大限駆使することができるなら、その果てに、ひょっとすると人間の脳以上のものを生み出すことができるかもしれない。そう直感したからです。そのコンピュータが生み出す果実を、人間の生活により多く解放したいからです。コンピュータの可能性はそれくらいあると思う。だから、コンピュータが活動できるインフラをつくりたいわけです。デジタル情報革命とは、コンピュータロードのことなんです」
この時点でストックオプションを独自に配布
ソフトバンクの制度は正確には「バーチャル・ストックオプション」である。 ストックオプションとは、自社株を市場価格より安い価格で入手できる権利を得ることをいう。日本では、企業が自社株を保有することは、商法で認められていないから、基本的にストックオプションは実施できない。法律上できないからと言って、黙って従う孫正義ではない。 そこで孫はこの法律の裏をかく方法を考えたのだ。自身の保有株と、自分の資金管理会社の保有株を元手にして、バーチャル・ストックオプションを二年前から導入した。 一九九五年のストックオプションの仕組みは、孫の説明によると税引後利益の増加額(一〇億円)を報奨金総額とし、四五% を役員、五五% を一般社員に割り当てる。支給額は担当事業の経常利益の増加額をベースに算定し、それを一〇年分割で支給するものである。
織田信長
- 信長の「鉄砲」とパラダイム・シフト
織田信長がやった楽市楽座にしても、貨幣の交換レートの統一にしても、あるいは堺の茶屋衆の港を押えて、小農の生産物を全部押えるとか。要するに、従来型の戦争で言えば、槍とか、刀とか、 鎧。これらを押えなきゃいけないが、鉄砲を中心としたパラダイムにおける必要な経営資源というのは、貨幣です。兵隊にしても、鎧かぶとの時代の兵隊の価値観と違う兵隊が出てくる。兵隊のトレーニングの仕方においても全然違う。インセンティブ(報償)の与え方においても、従来は首をとってきて、とってきた首を見せて、そちに一〇〇万石与えると言って成功の報酬で与えた。ところが、鉄砲だと、遠くから離れて撃つから、だれの弾が当たったかわからないわけです。だれの弾が当ったかわからないのに、報酬はできるだけ公平に与えなきゃいけないとなると、インセンティブの体系ですら従来の戦に比べ変わっていかなきゃいけない。それから、鉄砲が出現したせいで、兵農の分離がはっきりとする。 おっしゃるように、鉄砲という一つの武器が、社会におけるパラダイム・シフトを一気に起こしてしまって、それまでの価値観が、政治においても、経済においても、あるいは農業の世界までひっくり返される、ということになったのではないかと思います。
- 織田信長は都を中心にして考える
例えば織田信長は、尾張から始まって、一直線に京の都を目指して、そこに対してのみ陣地を拡大している。それに比べ武田信玄は甲斐の国を中心にして、その国から三六〇度に攻めていっているわけです。つまり、信玄のように自分のところの甲斐の国を活動の中心点と見るのか、いや、そうでなく、信長のようにたまたま生れ育ったのは尾張だけれども、京の都を中心点と見て、そこに重点を置いて、そこから各地に足を動かすというふうにするのか。信玄と信長の二人にはその違いが大きくあったのではないかと思うんです。 つまり、信長のようにそこはスケールとして、日本の国家を押えるビジョンを描くのか、いや、信玄のように甲斐の、自分の陣地を確実に守っていけばいいんだということで自分のライフ・プランを設計するか。これは大きな違いがあると思うんです。ぼくは、デジタル情報革命における都は東京にはない。これの都はアメリカだ、もっと言えばシリコンバレーだと思っているわけです。だから、どうしてもそこに旗を掲げざるを得ないわけです。シリコンバレーに攻め登って、そして、そこから世界の動きを見る。ですからアメリカに行くんです。
コンピュータの進化
- これの答え合わせとしてほぼムーアの法則通り、2024年現在で数十億個、2030年までに1兆個といわれている
ワン・チップ・マイクロ・コンピュータ内のトランジスタの数は、現在約六〇〇万個です。人間の脳細胞には三〇〇億個入っている。三〇〇億個対六〇〇万個ですと、二九九億九四〇〇万個、人間の脳細胞の方がコンピュータより多いわけです。はるかに多いわけですね。ところが、一年半ごとに、ワン・チップ・コンピュータのトランジスタの数は倍増しているんです。これはムーアズ・ローと言いまして、ゴードン・ムーアはインテルの創業者ですけれども、彼ムーアの見出した法則で、一年半ごとに、トランジスタの数が倍になっているというのが統計的に出ているんです。これからも大体それぐらいでいくと予想されている。そうすると、今から一五年後ぐらいに大体六〇億個ぐらいになるんです。それをさらに続けていきますと、今から三〇年後に、一〇〇万倍になる。 六〇〇万個のトランジスタが、一〇〇万倍になるということは六兆個になるんです。人間の脳細胞が三〇〇億個で、ワン・チップ・コンピュータが六〇〇億個になったと言ったら、これは倍ですから人間とコンピュータとどっちが賢いかと議論する気にもなる。ところが、三〇〇億個と六兆個ということになると、これは二〇〇倍ぐらいになります。そうすると、もうどっちが賢いかと議論する気持すらなくなる。六兆個の細胞を持ったコンピュータの方が、三〇〇億個程度のたかが知れた人間の脳細胞数よりは、はるかに賢いに決まっている。何でそれがみんなわからないのかなとぼくは思います。
- 2024年現在にAIについて語られていることを1996年時点で話している
心配するよりも、たった三〇年でそれがやってくるんですから、何をすべきか今から考えた方がいいんです。たとえば、人間に残されるというか、人間にとってより重要な役割というのは、知的奴隷とも言うべきホワイトカラーの仕事ではなく、もっとクリエイティブな仕事、例えば小説を書くとか、芸術だとか、手に職を持つとか。つまり、人間がやることによって、ランダム性がよび尊ばれるような世界、そういう世界が、より付加価値を持たされるものになってくる、物を単に運ぶとかいうのは、人間よりも機械の方が価値が高いわけです。単に物を計算するとか、顧客管理をするとか、給与計算をするとか、パチパチと経理の人が物を計算するとか、こういう次元のものはコンピュータにやらせた方が、はるかに安くて、性能のいいものができてくるということになると思うんです。
- ハイタッチとハイテクの二分化
心と心が触れ合う、人間同士が会話をしながら、お客さんに物を売るとか、買うとか、そういう世界というのは逆に価値が高まっていく。ハイタッチなものは、それはそれで価値が高まっていく、ハイテクなものは、どんどんハイテクに置き換えていく。ハイテクとハイタッチの両極端が未来産業になっていくのではないか。その中間にあるものがどちらかに、どんどん寄せられていくと思うんです。
- 車の未来
基本的には物理的なメカニズムの付加価値よりも、インテリジェンスの付加価値の方がより高められた乗物に変わっていくんだろうと思うんです。今でもナビとか、いろいろありますけれども、交通情報だとか、より安全性のために、コンピュータあるいは情報がもっともっと付加価値として高められていく、そういうものだろうと思うんです。
大事な時に坂本龍馬に立ち返る
- IPO後に「竜馬がゆく」を読み返した
株式公開で、多くの経営者、創業者はそこででき上がりになっちゃうんです。ぼくはでき上がりにしたくなかったわけです。そこを始まりにして、そこから二年半の間に売り上げが一〇倍近くになって、利益も約一〇倍ぐらいになって、社員の数も一〇倍ぐらいになったわけです。 そういう意味では、株式公開で守りに入っちゃうのを、ぼくはある種恐れたわけです。
先輩経営者からの影響
- 実はソニー盛田さんの塾生
ぼくは盛田さんの塾生の一人なんです。盛田さんは、十何人、若手の人たちを集めて、三~四カ月に一回ずつ、創業期からの話をずっとやっていたんです。盛田さんが現役でがんがんやっておられるときに、ぼくはいつも一番前の席に座って、いろいろ質問して、いろいろとアドバイスをしていただいたんです。
本田宗一郎さんにも、自宅にときどき呼んでもらってね。
もちろんそうです。本田さんと一緒に鮎を釣って、餅をついて、会話をして、いろいろ得るものがいっぱいありました。もちろん稲盛さんにも、同じようにしてかわいがってもらいました。世代が違いますから、直接、松下さんとお会いして、話をすることはできませんでしたけれども、松下さんの経営百話とか、新聞なんかにいっぱい出ている話を参考にしました。それぞれの人たちがそれぞれ体験した中の学ぶべきことというのは、いっぱいあると思うんです。歴史上の人物の中にも、竜馬がいて、織田信長がいて、その前にもいろいろな人がいてと。ぼくは、先人たちから学ぶべき点というのはいっぱいあると思います。