起業のきっかけ/創業メンバーとの出会い
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井深大
- 1908年生まれ
- 盛田さんの13個年上
- 中学時代にアマチュア無線に夢中になり、早稲田大学理工学部で「光電話」の実験や「走るネオン」の特許の取得
- 1933年大学卒業
- 「機械 × 電気 = メカトロニクス」に熱狂し、1940年にその分野で日本測定器という会社を共同創業
- 軍需電子機器の開発を行い、5年後の1945年には従業員800人の規模になっていた
- 終戦後、「自分のユニークな技術力を使って社会に役立つものをつくりたい」というモチベーションで日本測定器の一部メンバーと長野から上京
- 日本橋の白木屋の一角を借りて「東京通信研究所」を始めた
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「東京通信研究所」が作ったラジオコンバーターが新聞に取り上げられたのを、盛田さんが読んで井深さんに連絡
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盛田さんがちょうど軍の仕事を首になったこともあり、一緒にやろうとなり、1946年 5月7日 「東京通信工業(東通工)」を設立
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社員20名でスタート
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井深さん 38歳 専務取締役(技術担当)、盛田さん 25歳 取締役(営業担当)
- 社長は元文部大臣だった井深さんの義父、顧問に帝国銀行会長など井深さんの人脈による錚々たるFounder陣
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盛田さんは創業者というよりも「一番若手の共同創業者」という立ち位置
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最初は井深さんの「メカトロニクスの技術を使って社会に役立つ / 国民生活を良くするものをつくりたい」という夢を実現するための会社
- 今風に言うと、井深さんが0→1の人、盛田さんは1→10, 10→100の人 という印象
最初の事業は受託
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井深さんの「メカトロニクスの技術を使って社会に役立つ / 国民生活を良くするものをつくりたい」というビジョンから電気を使った機械を作る事業
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1946年の創業から1951年までの5年間は受託をやっていた
- つまりConsumer向けのProductを出していない時期
- 盛田さんも最初の5年を「注文生産時代」と位置づけている
- 要は「官公庁からの受託開発」
- 郵政、電気通信、放送、運輸など
- どうやって官公庁の受託を取ったのか → 創業メンバーのリファラル + そもそも当時「機械×電気の分野での製品づくり」ができるのが稀有だった
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創設2年後の1948年10月期、売上が1408万円、当期純利益35万円
- 売上の93%は官公需
- 現在の貨幣価値に換算すると売上1.4億円、当期純利益350万円である
第1の製品: テープレコーダーでコンシューマー向け製品の会社として開眼
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とはいえ受託だと自由な創意工夫ができない & 「技術で国民生活を良くするものをつくる」というビジョンもあるため、コンシューマー向け製品に進出できるチャンスを探していた
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1948年 井深さんがアメリカ製のテープレコーダーに遭遇し、これだと思って製造を開始
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1950年に初のtoCプロダクトとなる「G型テープレコーダー(日本初)」を発売 → しかし、重量35キロと重くて大きすぎる + 価格が16万円と高すぎたため、全く売れなかった
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その後、小型化の研究をし、1951年4月に「H型テープレコーダー」を発売
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そもそも日本にテープレコーダーという製品が広まっていなかったため、学校に無償で提供して使い方を布教するなどの活動から始め、市販でも売れるようになった
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このタイミングでコンシューマー向けプロダクトの会社になった
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1953年 「電化元年」というトレンド
- 考えてみれば「電化製品」という言葉
- この時代の最先端のテクノロジーが「電気」だった
第2の製品: ポケッタブルラジオで世界へ挑戦し、SONYブランドの名を挙げる
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1950年代
- 1956年ごろが白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫の「三種の神器」と呼ばれた時代
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九州の炭鉱景気が落ち込んだ影響で、テープレコーダーの売れ行きが悪化したピンチから、マーケットの範囲をとにかく広げる必要があると、世界への販売を意識するようになった
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1953年 盛田さん 32歳で初めての渡米
- アメリカのスケールに「完全に打ちのめされた」
「こんな国で我が社の製品を売るのは到底無理な話だと思った。好景気に湧くこの国に足りないものなど何一つないような気がした」
- 当時の「メイド・イン・ジャパン」は「安かろう悪かろう」の代名詞だった
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その後、ヨーロッパを回る
- オランダの片田舎でフィリップスの本社を見て度肝を抜かれた
「農業国のこんな辺ぴな町に生まれた人間が、このような高度技術を持つ世界的な大企業を設立したことに改めて感銘を覚えた。それと同時に、小国日本のわれわれにも、あるいは同じようなことができるかもしれない、そう私は考えはじめた。」
- 1953年の11月に三カ月の旅から帰国するなり、すぐに「世界の東通工」という方針を打ち出した。
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同時期に テープレコーダーの次の活用方法を探るために、井深さん(44歳)が渡米するも、収穫なし
- 次にどのような製品を作るのかを決めかねていた
- そんな折に、ウェスタン・エレクトリック(WE)社がトランジスタの特許を公開するという話が舞い込んでくる
- Q. トランジスタは何がすごいのか?
- 真空管の代替 (大幅な小型化、熱や電力効率の良さ、寿命が長い)、バッテリーで動くことが可能になり、電池も同時期に発明された
- 真空管は熱を持ちやすく切れて壊れやすかったため、町の家電屋での修理が盛んだった
第一にあげられるのは、 トランジスタの力で大衆のライフスタイルを変えた ことだ。 当時は、ラジオやその後に登場したテレビも、真空管を何本も使って作動していた。だが真空管は、消費電力が大きく、発熱のため頻繁に切れ、故障の原因になっていた。町の電気屋はその修繕が大きな仕事だった。トランジスタはそんな煩わしさから人びとを解放しただけでなく、省電力のため小型化でき、電池で機能した。
- Q. トランジスタは何がすごいのか?
- → 次に作る製品はトランジスタを使ったラジオしかないと決意
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トランジスタの開発が難しく、進まない → 資金繰りが悪化、給料の遅配 → 奇跡的に開発に成功
- ベル研究所もできなかいと判断したことを、あえて実験を繰り返すことで、新しい型のトランジスタの開発に成功
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1955年 ポケットに入るくらいの小型ラジオを生産 → SONYのブランドでアメリカに売りに出る
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真空管ラジオ (電子レンジくらいの大きさ) が主流だった当時は、小型ポケッタブルラジオは何に使えるのか理解されず、売り込みに苦労したが、「1人1台ラジオを持って自分の好きな番組を聞けるプライベートラジオ」という切り口で売れていった
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ブローバーというアメリカの時計ブランドからの発注 → ブローバーブランドで売る条件だったので断ったエピソード
この電話で井深を口説いた盛田は、グールドとの三度目の会見で注文を断った。憮然とする彼に、盛田は宣言する。「五〇年前、あなたの会社のブランドは、世間に知られていなかったでしょう。いまわが社は、新製品とともに五〇年後に向けて第一歩を踏み出そうとしているところです。たぶん、五〇年後にはあなたの会社に負けないくらい、SONYのブランドを有名にしてみせます」。そう大見得を切った。 盛田自身も「この決断は、私のこれまで下したなかでもベストなものだ」、と幾度となく語っている。会社の大損害を未然に防いだだけではない。「ブローバー」という名門ブランドの洗礼を浴びて、「SONY」ブランドに魂を入れることができた からだ。 目先の利益を取るか、商標の魂を取るか。経営の基軸が問われた時、盛田は躊躇することなく後者を選んだ。
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トランジスタラジオは欧米でもヒット、人々のライフスタイルを変えた
- それまでのラジオは「一家に一台」→ ポータブルラジオを1人1台持てることによって、若者が音楽を親に隠れて聞けるようになり、ポップカルチャーの目覚めにつながった
「電池とトランジスタという画期的な技術革新が、ラジオとレコードプレーヤーの携帯型を生み出した。これは大革命であった。というのは、これらの登場により、若者たちはダンスホール以外、つまり親の目の届かないところでもダンスに興じることができるようになったからである。これは性の解放につながり、ジャズからロックといったすべての新しい音楽ジャンルの幕開けともなった」。
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1950年代後半は日本では東芝や日立、松下ら大手がトランジスタラジオに取り組み始め、ライバルが多く、売りにくかった → 海外に活路を見出した
「日本では売りにくかったのです。東芝、日立などみんなトランジスタラジオに取り組み始めた。松下には数万店のショップ店がある。(五〇年代後半は)冷蔵庫、洗濯機、掃除機が三種の神器になった時代。町の電気屋さんには、ソニーのトランジスタラジオなんかどうでもいいけど、松下の冷蔵庫や洗濯機が売れなくなったら、おまんまの食い上げなんです。 生産力は資金があれば拡大できるけど、販売力の拡大は簡単じゃない。だけど、販売力がないと、いくらつくっても在庫の山になるだけ。ではどうするか。海外に販路を拡大しようじゃないかと。しかも、販売力がゼロに等しい国内販売から見たら、アメリカのマーケットは大きい。人口は倍だし、その頃は財力たるや一〇〇倍も違う。チューブのように国内から押し出されたけれど、盛田さんにとっては、スターティング・ポイントが同じだから、海外のほうが得だと読んだのでしょう。もちろん、勝てる保証はないけれど、日本よりは勝つチャンスは多いと見通したんだ」
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「モルモット精神」
「トランジスタでは、ソニーがトップであったが、現在ではここでも東芝がトップに立ち、生産高はソニーの二倍近くに達している。儲かるとわかれば必要な資金をどしどし投じられるところに東芝の強みがあるわけで、何のことはない、ソニーは東芝のためにモルモット的役割を果たしたことになる」、とソニーを皮肉った。 「私どもの電子業界では、常に変化していくものを追いかけていくのが、当たり前のことであります。 決まった仕事を、決まったようにやるということは時代遅れである ということを、日本全体が忘れているのではないか」。「トランジスタの使い方というのは、まだまだ我々の生活のまわりに使われる新しいものがたくさん残っているんじゃないか。それを一つひとつ開拓して、商品にしていくのが、モルモット精神だと思う」。六一年は、この「モルモット精神」を本物にする闘いが始動した年だった。
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1958年に社名をソニーに変更 → 東証一部上場
第3の製品: ポータブルテレビから革新的なカラーテレビで大躍進、「世界のソニー」へ
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1960年代
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ラジオがパーソナル化したように、次はチャンネル争いが起きているテレビもパーソナル化するに違いないと考えた
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1960年 世界初のポータブルトランジスタテレビ(白黒)を発表
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1962年 世界最小・最軽量のマイクロテレビ(白黒)を発表
最初は小さな画面のテレビを発売すること自体が「冒険」だったが、盛田は「一人ひとりが使うテレビ」が求められているという仮説を生みだし、確信をつかんでいた。というのも、当時、日本でさえ六つのテレビ放送チャンネル(首都圏)があり、一家に一台のテレビでは、見たい番組を巡って〝チャンネル争い〟がおきていたからだ。 すでにラジオでは、「床の間や箪笥の上に置き、家具の一種だったのが、私どものトランジスタラジオの出現で考え方を徹底的に変えてしまった。アクセサリーの一つにしてしまった。一人ひとりがラジオを持って好きなプログラムを聞く。勉強しながらラジオを聞いているのか、聞きながら勉強しているのか、わからないような〝ながら族〟という言葉もできて、そういう時代が来ている。テレビもこんなにチャンネルが沢山になっているのに、これでいいのか。必ず一人ひとりがテレビを持つ時代が 来る」。
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1962年 ニューヨークにショールームをオープン
- 現在のアップルストアのような自社ブランドのショールーム店舗
- 日本車は走っておらず、日本のメーカーは現地アメリカのブランドで商品を売っていた上京で、SONYブランドのショールームを出し、日の丸を掲げた
ニューヨーク五番街のショールームは、六二年一〇月一日にオープンした。 黒木によれば、「当時、ニューヨークには日本車は走っていなかった。……家電製品では三菱電機はデルモニコ……サンヨーはチャンネルマスター。つまり自分の名前では売っていなかった。そこでソニーだけがそれをやろうとしたのだ。盛田の愛国心が燃えていた。『日の丸を揚げるぞ』——盛田が(黒木にそう呼びかけた時、)自分自身に言い聞かせているようにも感じられた」、と書き記して いる。 ニューヨーク五番街に初めて翻った日章旗は、敗戦国・日本の復興がついにここまで来た、という象徴だった。それは、アメリカに駐在していた日本人ビジネスマンや日系人たちに、その苦労に報い熱い涙をあふれさせた旗であり、明日への力を鼓舞する 標 だった。
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1963年 盛田家は家族でニューヨークに移住 (42歳、小学生の子供3人)
- 盛田さんも妻のよしこさんも英語は話せない
なぜ盛田は、家族揃って現地に駐在しようとしたのか。ソニーの事業が軌道に乗ってきたとはいえ、実質的にマネジメントを切り盛りしていた経営トップが、日本本社を遠く離れた土地に家族とともに移り住む。井深をはじめ、当時の経営陣が大反対したのも当然である。 ましてや、当時は一ドル=三六〇円時代で、外貨の割当制限もあり、日航機もまだ飛んでおらず、直行便もなかった。交通も通信事情も現在とは比較にならないほど不便だった。それでも盛田は、反対する経営陣を説得して家族での移住を強行した。なぜだろうか。 実はニューヨークのショールームのオープンに際して、盛田は初めて良子夫人を同伴した。すると、アメリカ人たちが、それまでとは打って変わって盛田夫妻を自宅に招き、互いに格段に親密さが増すことを実感できたのだ。彼女は英語が話せなかったが、物怖じするタイプではなく、すぐにうち解け、もてなされ上手でもあった(後に、もてなし上手となる)。 「みなさん、ハニー、ハニー、ヨシコ、ヨシコと歓待してくれるものですから、主人はびっくりしたんですね。奥さんを連れて行くのと行かないのとでは、こんなにも違うのかと。それで、アメリカに溶け込むには家族で住まなければいけないんだ、とわかったのです」と良子夫人は述懐する。 アメリカ人の生活がどんなものかをほんとうに理解し、この巨大なアメリカ市場で成功しようと思うなら、アメリカに会社を設立するだけでは不十分である。家族共々アメリカに引っ越して、実際にアメリカの生活を経験しなければだめだと考えるようになった。……家族で住めば、旅行者にはとうてい望めないほどアメリカ国民を理解することができるだろう」
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実は1960年代、時代はカラーテレビへ移っていた
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当時のカラーテレビは「車と同じくらい高く、明るいところだと見れない」ものだった
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そこで井深さん主導で「普通の庶民が、明るいお茶の間で、見れる」カラーテレビの研究開発を開始する
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5年間全く開発が上手くいかなかったが、1968年プロジェクト打ち切りギリギリのところで、独自の方式を発明→ 明るい場所で見れるカラーテレビを発売
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1970年 日本企業として初めてのニューヨーク証券取引所上場
- ロンドン証券取引所、アムステルダム証券取引所にも連続的に上場
- → 「世界のソニー」へ
第4の製品: VTR(ビデオ)での大失敗
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1970年代
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1971年 井深さんが63歳で社長から会長に、盛田さん50歳で社長に
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ポスト “カラーテレビ”の本命製品がビデオ(VTR)だった
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1975年 ベータマックス発売
- https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/sonyhistory-d.html
- 松下や日本ビクターらの日本の競合他社に規格合わせを提案し、足並みを揃えつつ発売
- これまでのソニーと比べてスピード感が遅い
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結局、松下/日本ベクターが別規格を出し、VHSに敗北
- ソニーのベータマックス vs 日本ビクターのVHS
- アメリカでのベータマックス訴訟 8年間の裁判
- 「コンテンツの複製は著作権違反」
- VHSにソフト(コンテンツ)で圧倒されたこと
経営の引き継ぎ → ウォークマン、多角化
- 再生戦略
- 経営体制の一新 (井深・盛田ペアへの依存からの脱却)
- “キーデバイス”にFocusする (原点回帰)
- ハンディカム
- ウォークマン
- CD
- 多角化
“キーデバイス”へのFocus
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ウォークマンの開発
- 1若手エンジニアが、テープレコーダーを改造し、ヘッドホンで音楽が聞けるデバイスを自分用に作って楽しんでいた
- ラジオもテレビもパーソナル化してきたソニーが、ステレオをパーソナルにする
- 当時はヘッドホンで音楽を聞くという習慣はなかった
井深: ステレオは、いかに大出力のスピーカーで音を届けるかという世界だが、耳のそばで良い音が出せればそれで良いんだ 盛田: 外で音楽が聞ける、若者の必需品になる
- 当時はスピーカーで再生、録音ができるというのが一般的だった
国内営業は八〇〇万円をかけて市場調査を依頼。結果は、「音楽は再生できるが録音はできない。ヘッドホン以外では聴けない。そういう商品は誰も買わない」というものだった。提出された調査資料に、盛田は激怒したという。 ***「ソニーにとって、市場はサーベイ(調査)の対象じゃないんだ。クリエイト(創造)する対象なのだ。全く新しい商品を出すということは、新しい文化をつくるということなんだ」。***大曽根はこの言葉が今でも忘れられない。
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1979年 初代ウォークマン発売 → 1980年代にかけて次々と新モデルを発表
ウォークマン一号機は一五〇万台の大ヒット。八一年に発売された二号機は二五〇万台の爆発的ヒットとなった。発売以来の累計は、一〇年で五〇〇〇万台、二〇年で一億八九〇〇万台、まさに地球を覆うインダストリーを生み出し、若者文化の象徴となった。
多角化
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金融への多角化
- プルデンシャル生命と保険会社を設立 → 1987年 100%子会社化
- 後のソニー生命
「三井だとか三菱、住友とか、そういうグループの中核の一つに金融業は必ずある。金融というのは、グループの安定を示し信用やバランスを保つうえで、われわれにも必要だ」。「ソニーも銀行を持てないものか検討しようじゃないか」 「いつか必ず、ソニーが生命保険会社をもっていてよかった、と思うときが来る」——。三六年前に盛田が発したその言葉は、現在、十二分に実証されている。
- プルデンシャル生命と保険会社を設立 → 1987年 100%子会社化
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コンテンツへの多角化
- 1988年 世界最大級のレコード会社 「CBSレコード」の買収
- 後のソニー・ミュージック・エンターテイメント
- ハリウッドの「コロンビア・ピクチャーズ」の高値で買収
- アメリカでは「バブル真っ盛りの日本がアメリカの誇りを買っている」と批判
- → 大失敗
- 1988年 世界最大級のレコード会社 「CBSレコード」の買収
→ 現在のソニーグループを支える柱に
1993年(平成5年)11月、テニスのプレー中、脳内出血で倒れる。その後会長職を退き、ハワイで静養した。
1994年(平成6年)ソニー ファウンダー・名誉会長に就任。
1999年(平成11年)10月3日午前10時25分、肺炎のため東京都港区の東京都済生会中央病院で死去した、78歳没