鹿島茂氏が書いた人生哲学本
進みながら強くなる
- 準備をしない。進みながら強くなれ。
人間だれしも、いずれ十分に力を蓄えて強くなったと確信してから進みたいと考えます。 しかし、こうした完璧主義でいくと、時間もかかるし、金もかかるのは当然です。 それに、「よし、十分強くなったから、そろそろ進もうか」と決意する頃には、もう人生は終わってしまっていることが少なくないのです。
だったら、多少、見切り発車の感があっても、とにかくスタートを切ろうじゃないか。 もちろん、前に進むからには多少は強くなっていなければならないけれど、とにかく進むぞと決意して、試行錯誤しながら一歩ずつ前に足を出していくうちに、いつのまにか力がついてきて、スタートする前には全然進めないと思っていた距離も簡単に進めるようになっている。 実は、強くなったのは、とにかくスタートしなければならないという至上命令があったからで、この至上命令を何とか果たそうと無茶苦茶に努力しているうちに、気がついたら強くなっていたということなのです。
- 自分に言い訳を作ってあげる
しかし、私のこの『進みながら強くなる』という本を読んで、「そうか、そういうことか、よしっ!」と決意を固めたとしても、やはり、人間、そう簡単には見切り発車することができるものではありません。
こんな時に、とても便利なのが、「……なので、仕方なく」というように、自分ではどうにもならない「なにごとか」を理由に使うことです。 「本当はまだ準備が整っていなかったからスタートしたくなかったんだけれど、人から無理強いされて、あるいは周囲の状況からそうなってしまったので、仕方がないからスタートした」と言い訳することなのです。
- やらない理由、ダメな理由はいくらでも見つかる
他発的動機というのは、何かを「すること」ではなく、何かを「しないこと」のために使われるケースが非常に多いようです。 つまり、これこれこういうことが妨げになっているからスタートできないのだという、スタートの決断を下さない理由に使われてしまうのです。
人間、とくに日本人というのは進取的・前向きであるよりも保守的・現状維持的で、何かしないことの理由はいろいろと見つけてくるのですが、何かを決断する理由というのはなかなか見つけられないようにできているようです。
個人の場合でも、ダメの理由はいくらでも見つかります。そして、いつもいつもダメの理由ばかり見つけているうちに歳を取り、若いうちなら可能だったかもしれないアイディアも本当にダメになってしまうのです。
潜在能力はやってみて初めて分かる
どんな人でも自分で思っているよりもはるかに能力があるもので、その潜在能力というのは本人にはなかなか認識できないものです。やってみて初めてわかることが多いのです。 その結果、「案外、おれ(わたし) は 凄いんだ」と自分で自分を褒めてやりたくなることでしょう。「やってみると、本当にできるんだ。もしかすると、おれ(わたし) は天才かもしれない」などと 自惚れが生まれてくることもあるかもしれません。
インプットはアウトプットしているうちに行う
- 「インプットとアウトプットを交互に行う」「アウトプットDrivenでインプットを行う」に加えて「アウトプットしているうちに次のインプットを行う」
アウトプットしたら次はインプットと考えていると、アウトプットし終わって「から」、インプットに取り掛かるということになるのですが、たいてい、それでは遅いのです。
なぜでしょう? それはアウトプットし終わって、脳髄がカラカラになった状態では、インプットしにくいばかりか、再び満タンになるまで相当の時間がかかるばかりか労力も要するからです。 なぜなのかはわかりませんが、「才能出尽くし」の状態になってしまうと、才能の再注入ははるかに困難なものになるのです。
これが何を意味するかといえば、インプットはアウトプットをしているうちに行えということです。アウトプットをして調子が出てきたと思ったら、もうその時にはインプットを考えておかなければならないのです。
- この原則は仕事でも、企業の新規事業でも同じ
- 仕事では「施策検討→実施している間に次の施策を検討しておく」
- 新規事業では「事業立ち上げ→伸びている間に次の新規事業を仕込んでおく」
企業についても同じことが言えます。 ある製品が爆発的に売れたからといって、工場の生産ラインを全部その製品のために使うとか、あるいは、次の製品の開発を怠るとかすると、人気製品の需要が飽和状態になったとたん、その企業は危機に立たされることになります。
他に売るべき製品をまったく持っていないからです。 したがって、アウトプットに成功したら、ただちにインプットに本格的に取り掛からなければなりません。
選択と集中問題、どこまで手を広げるか
アウトプットを続けているうちにインプットを開始するというのが「進みながら強くなる」ための秘訣ですが、しかし、この原則を貫くのは思いのほか難しいものです。
その原因の一つに、多方面展開しすぎて、どの分野で再インプットをすべきか見極めがつかない場合があります。
- まずは「片っ端から手を広げてみてキャパシティを形作る」
荒俣さんは「来た注文を片っ端から引き受けることですね」とあっさり答えられました。 私が「でも、そんなことは荒俣さんにしかできないでしょう」と言うと、「いや、死ぬ気になってやれば、できないことはないですよ」との答えが返ってきました。 そして、続けて、荒俣さんはこうおっしゃったのです。 「どんな注文でも片っ端から引き受けているうちに、段々、力関係が逆転して、こちらの方の立場が強くなりますから、そうしたら自分の好きなことを書けばいい。そこまで頑張ることですよ」
- 新規事業の「既存事業とのシナジーではなく、自社のキャパシティをベースに考える」に通じる
専門外からの注文を受ける
最近は、リスク回避ということで多分野展開が企業のサバイバル戦略と言われるようになっていますが、その失敗例と成功例を分析してみますと、失敗例の多くが「今 流行っているから」とか「 儲かりそうだから」という理由で畑違いの分野に進出するケースであるのに対し、成功例は、専門外からの注文を受けた時に、これをいきなり断らずに、自社の業態を転換ないしは拡大するチャンスと 捉えて、自社の専門技術の応用を図ったケースに見られるようです。
専門外からの注文には、「進みながら強くなる」もう一つのヒントが隠されている場合が少なくないのです。
読書本は「知の枠組を広げる」方向で選べ
原則は、知の枠組を広げる方向で本を選べ、ということになると思います。つまり、問いに対する答えを探すことも必要ですが、問いを探すことの方がはるかに重要だということです。
「自分の頭で考える」方法
- デカルトの方法序説より4つの原則
- 自分を含めた全てをまず疑う (第一原理、ゼロベース思考)
- 問題を小さく分割する (困難は分割せよ、Divide and Conquer)
- 単純で理解できるものから順に複雑なものを考える (具体から抽象へ)
- すべての可能性を列挙する
デカルトが『方法序説』で述べている「考える方法」には四つの原則があります。 たった四つの原則を守ればいいのです。
1 自分がそれを疑ういかなる理由も見いだせないほど明証的に真である、と認めたものでなければ、いかなるものも真として受け入れないこと。
2 自分が吟味する問題のそれぞれを、できる限り多くの、最もよく解くために必要なだけの数の、小さな部分に分けること。
3 自分の思想を、最も単純で最も認識しやすいものから始めて、段階を踏んで、最も複雑なものに達するよう、順序立てて思考を導くこと。
4 何ものも見落とすことがないと確信しうるほどに完璧な列挙と通覧をあらゆる場合に行う
これでは言い方が難しくて、よくわからないという人がいるかもしれませんので、次のように単純化してみましょう。 1 すべてを疑おう
2 分けて考えよう
3 単純でわかりやすいものから取り掛かろう
4 可能性をすべて列挙・網羅しよう
国ごとの違いを「家族構成」から説明する
- アメリカやイギリスなどの「核家族」文化の場合は、個人の独立と自由が前提になっている
- そのため、独立競争や尖ったことをやるイノベーションの生まれやすさにつながる
- 日本やドイツなどの「直系家族」文化の場合は、親という権威に服従することが前提になっている
- そのため、自分で決めるというよりは人に合わせるという行動が多く、「既存のものを改良する」ことに強い
自由よりも権威に服従することに高い価値が与えられていますので、近代的な自我の確立や個人の自立といったことは遅れ、その結果、前工業社会においては、人間関係の近代化(農村共同体の解体) に手間取るため、工業化社会の成立においても核家族類型の国々の 後塵 を拝します。
ところが、ひとたび、工業化社会が到来すると、教育熱心で識字率が高いことが幸いして、あっというまに世界の先進工業国の仲間入りを果たします。 ただし、千万人といえども我行かんという自立独立の精神には乏しいので、世界のイノベーターとなることは少なく、だれかが発明したものを改良することに秀でるという特徴を持ちます。
- 島国から大悪党は生まれない
ひとことで言えば日本人は海に囲まれた巨大な直系家族であるということになるのです。 道徳的なメンタリティーの高さはそんなところから発達したのだと思います。 大陸にある国だと、たとえ社会道徳を踏みにじる悪事をしでかしたとしても地続きでどこにでも逃げられるという発想が生まれるでしょう。 しかし、島国ではどこにも逃げようがないので、集団の掟にはとりあえず従っておいた方がいいということになるのです。 掟を平気で踏みにじる破格の大悪党というのは日本ではなかなか生まれてこないのです。
- 年功序列文化も家族構成から説明できる
入社年度による序列意識というのは、核家族類型の社会で作られた会社では絶対に見られないもので、この意味では年功序列という日本の会社の特性は、まさに直系家族からそのまま運びこまれたものなのです。
- 日本も最近は核家族化が進んでいるが、直系家族的な考え方が残っている
実際には、直系家族が 歪んだ形で核家族に変質した直系家族的核家族にすぎないのです。言い換えると、直系家族的な本質を保存したまま核家族に変質しているだけと言っていいものなのです。
- 日本に今必要なのは「正しく理解された自己利益(自己愛)」
- これは「自分の利益を守るためには、他人の利益も守らなければならない」ということ
私の考える、疑似的核家族時代の道徳教育、つまり「正しく理解された自己利益(自己愛)」とは、何ゆえに整列した方がしないよりも得かということを考えることから始まるものです。
気晴らしの欲求
「個々の仕事をいちいち吟味しなくとも、気晴らしという観点から眺めれば、それだけで十分である」
つまり、パスカル的な観点に立てば、この世の中の人間の営為のすべては気晴らしにすぎません。
「自分は心の底から休息を欲していると思い込んでいるのだが、実際に求めているのは、興奮することなのだ。 彼らには一つのひそかな本能があり、それが彼らをして、気晴らしと仕事を自宅の外に求めさせるのだが、それは自分たちの永遠に続く惨めな状態の予感から来ている。このようにして、一生が過ぎてゆく。人は障害と戦っているときには休息を求めるが、ひとたび障害を乗り越えてしまうと、休息は耐え難いものになる。なぜなら、いま直面している悲惨のことを考えるか、あるいはいずれわたしたちを脅かす悲惨のことを考えずにはいられないからだ。」
- 倦怠から逃げるように気晴らしばかりしていると、模索の機会を失う
パスカルのように、気晴らしはよくない、なぜなら、気晴らしをしていると自分の惨めさを正面から見据える契機を失してしまうからだ、と考えることです。 「気晴らしというものがなければ、わたしたちは倦怠に陥るだろうが、その倦怠はわたしたちをして、そこから抜けだす最も確かな方法を模索させるはずだからである」
人は必ず名声を求める
「人間の最大の卑しさは、名声の追求にある。しかし、まさにそれこそが、人間の卓越さの最も大きなしるしなのだ。というのも、人が地上でどれほどのものを所有しようと、またどれほどの健康と快適さを得ようと、その人は、人々から尊敬されていなければ満足できないからだ。その人は人間の理性というものにかくも大きな敬意を抱いているので、地上で自分がいかに優位な立場を占めていようと、人間の理性の中で自分が優位を占めていなければ、満足できないのである。人間の理性の中に占める優位こそが最も素晴らしい優位さであり、いかなるものも彼をこの欲望から目をそらさせることはできない。そして、これこそが、人間の心の最も消しがたい性質なのである」