松下幸之助氏の書かれた人生と仕事の哲学についての本
運命を切り開くための言葉
志を立てよう
生命をかけるほどの思いで志を立てよう。志を立てれば、事はもはや半ばは達せられたといってよい。
道がない、道がひらけぬというのは、その志になお弱きものがあったからではなかろうか。
つまり、何か事をなしたいというその思いに、いま一つ欠けるところがあったからではなかろうか。
人生は真剣勝負である
人生は真剣勝負である。
だからどんな小さな事にでも、生命をかけて真剣にやらなければならない。 もちろん 窮屈になる必要はすこしもない。 しかし、長い人生ときには失敗することもあるなどと呑気にかまえていられない。 これは失敗したときの 慰めのことばで、はじめからこんな気がまえでいいわけがない。 真剣になるかならないか、その度合によってその人の人生はきまる。 大切な一生である。
日々を新鮮な心で迎えるための言葉
日に三転す
人の考えもまた同じ。 古人は「君子は日に三転す」と教えた。 一日に三度も考えが変わるということは、すなわちそれだけ新たなものを見いだし、生み出しているからこそで、これこそ君子なりというわけである。 日に一転もしないようではいけないというのである。
おたがいにともすれば、変わることにおそれを持ち、変えることに不安を持つ。 これも人間の一面であろうが、しかしそれはすでに何かにとらわれた姿ではあるまいか。 一転二転は進歩の姿、さらに日に三転よし、四転よし、そこにこそ生成発展があると観ずるのも一つの見方ではなかろうか。
なぜを絶やすな
大人もまた同じである。 日に新たであるためには、いつも〝なぜ〟と問わねばならぬ。
そしてその答を、自分でも考え、また他にも教えを求める。 素直で私心なく、熱心で一生懸命ならば、〝なぜ〟と問うタネは 随処 にある。
それを見失って、きょうはきのうの如く、あすもきょうの如く、十年一日の如き形式に 堕したとき、その人の進歩はとまる。 社会の進歩もとまる。 繁栄は〝なぜ〟と問うところから生まれてくるのである
くふうを重ねる
とにかく考えてみること、くふうしてみること、そしてやってみること。 失敗すればやりなおせばいい。 やりなおしてダメなら、もう一度くふうし、もう一度やりなおせばいい。
われわれの祖先が、一つ一つくふうを重ねてくれたおかげで、われわれの今日の生活が生まれた。
それは創意がなくてはできない。くふうがなくてはできない。 働くことは尊いが、その働きにくふうがほしいのである。 創意がほしいのである。 額に汗することを称えるのもいいが、額に汗のない涼しい姿も 称えるべきであろう。 怠けろというのではない。楽をするくふうをしろというのである。 楽々と働いて、なおすばらしい成果があげられる働き方を、おたがいにもっとくふうしたいというのである。 そこから社会の繁栄も生まれてくるであろう。
自ら決断を下すときのための言葉
「断を下す」ことがまず重要
進むもよし、とどまるもよし。 要はまず断を下すことである。みずから 断を下すことである。 それが最善の道であるかどうかは、神ならぬ身、はかり知れないものがあるにしても、断を下さないことが、自他共に好ましくないことだけは明らかである。
慌てないこと
揺れるよりも揺れないほうがよいけれど、風が強く波が大きければ、何万トンの船でも、ちょっと揺れないわけにはゆくまい。 これを 強いて止めようとすれば、かえってムリを生じる。 ムリを通せば船がこわれる。 揺れねばならぬときには揺れてもよかろう。 これも一つの考え方。
大切なことは、うろたえないことである。あわてないことである。 うろたえては、かえって針路を誤る。そして、沈めなくてよい船でも、沈めてしまう結果になりかねない。
6割の判断を、勇気と実行で10割にする
万が一にも誤りのない一〇〇パーセント正しい判断なんてまずできるものではない。 できればそれに越したことはないけれど、一〇〇パーセントはのぞめない。 それは神さまだけがなし得ること。 おたがい人間としては、せいぜいが六〇パーセントというところ。 六〇パーセントの見通しと確信ができたならば、その判断はおおむね妥当とみるべきであろう。
そのあとは、勇気である。実行力である。 いかに適確な判断をしても、それをなしとげる勇気と実行力とがなかったなら、その判断は何の意味も持たない。 勇気と実行力とが、六〇パーセントの判断で、一〇〇パーセントの確実な成果を生み出してゆくのである。 六〇パーセントでもよいから、おたがいに、 謙虚に真剣に判断し、それを一〇〇パーセントにする果断な勇気と実行力とを持ちつづけてゆきたい。
止めを刺す
せっかくの九九パーセントの貴重な成果も、残りの一パーセントの止めがしっかりと刺されていなかったら、それは始めから無きに等しい。
もうちょっと念を入れておいたら、もうすこしの心くばりがあったなら──あとから後悔することばかりである。
一挙にことをなすのではなく、一歩一歩成就させる
どんなによいことでも、一挙に事が成るということはまずあり得ない。 また一挙に事を決するということを行なえば、必ずどこかにムリを生じてくる。 すべて事は、一歩一歩成就するということが望ましいのである。 だから、それがよいことであればあるほど、そしてそれが正しいと思えば思うほど、まず何よりも 辛抱強く、根気よく事をつづけてゆく心がまえが必要であろう。
思い悩むのは当然、とにかく人に聞く
悩みもなければ憂いもない、そんな具合にはゆかないのである。 悩みもすれば憂いもする。迷いもする。 わからん、わからん、どうにも判断がつかん、どうにも決心がつかん、そんなことが日常しばしば起こってくる。
わからなければ、人に聞くことである。 己のカラにとじこもらないで、素直に謙虚に人の教えに耳を傾けることである。 それがどんな意見であっても、求める心が切ならば、そのなかから、おのずから得るものがあるはずである。 おたがいに、思い悩み、迷い憂えることを恥じるよりも、いつまでも己のカラにとじこもって、人の教えを 乞わないことを恥じたいと思うのである。
「見ること博ければ迷わず。聴くこと聡ければ惑わず。」
困難にぶつかったときのための言葉
心配またよし
憂事に直面しても、これを恐れてはならない。 しりごみしてはならない。〝心配またよし〟である。
心配や憂いは新しくものを考え出す一つの転機ではないか、そう思い直して、正々堂々とこれと取り組む。 力をしぼる。知恵をしぼる。 するとそこから必ず、思いもかけぬ新しいものが生み出されてくるのである。 新しい道がひらけてくるのである。 まことに不思議なことだが、この不思議さがあればこそ、人の世の味わいは限りもなく深いといえよう。
時を待つことの重要性
何ごとをなすにも時というものがある。 時──それは人間の力を超えた、目に見えない大自然の力である。 いかに望もうと、春が来なければ桜は咲かぬ。 いかにあせろうと、時期が来なければ事は 成就せぬ。
わるい時がすぎれば、よい時は必ず来る。 おしなべて、事を成す人は、必ず時の来るを待つ。 あせらずあわてず、静かに時の来るを待つ。
着々とわが力をたくわえる人には、時は必ず来る。時期は必ず来る。
岐路に立つこと
そんな境遇から力強い生きがいが生まれるだろうか。 やはり次々と困難に直面し、右すべきか左すべきかの不安な岐路にたちつつも、あらゆる力を傾け、 生命をかけてそれを切りぬけてゆく──そこにこそ人間としていちばん充実した張りのある生活があるともいえよう。 困難に心が弱くなったとき、こういうこともまた考えたい。
困難を困難とせず
「断じて行なえば、鬼神でもこれを避ける」という。
困難を困難とせず、思いを新たに、決意をかたく歩めば、困難がかえって飛躍の土台石となるのである。 要は考え方である。 決意である。困っても困らないことである。 人間の心というものは、 孫悟空の如意棒のように、まことに伸縮自在である。 その自在な心で、困難なときにこそ、かえってみずからの夢を 開拓 するという力強い道を歩みたい。
仕事とは勝負である
仕事というものは勝負である。一刻一瞬が勝負である。 だがおたがいに、勝負する気迫をもって、日々の仕事をすすめているかどうか。
自信を失ったときのための言葉
真剣でさえあれば良い
失敗することを恐れるよりも、真剣でないことを恐れたほうがいい。 真剣ならば、たとえ失敗しても、ただは起きぬだけの充分な心がまえができてくる。 おたがいに「転んでもただ起きぬ」よう真剣になりたいものである。
仕事をより向上させるための言葉
仕事は自分のものではない
自分の仕事は、自分がやっている自分の仕事だと思うのはとんでもないことで、ほんとうは世の中にやらせてもらっている世の中の仕事なのである。 ここに仕事の意義がある。
事業をより伸ばすための言葉
フロンティアに終わりはない
事業というものは不思議なものである。 何十年やっても不思議なものである。 それは底なしほどに深く、限りがないほどに広い。いくらでも考え方があり、いくらでもやり方がある。 もう考えつくされたかと思われる服飾のデザインが、今日もなおゆきづまっていない。 次々と新しくなり、次々と変わってゆく。 そして進歩してゆく。 ちょっと考え方が変われば、たちまち新しいデザインが生まれてくる。
経営とは、仕事とは、たとえばこんなものである。
自主独立の信念をもつための言葉
身にしみる体験をせよ
一生懸命にやっていたつもりでも、何かのキッカケで、身にしみる思いをしたときには、今までの一生懸命さが、まだまだ力足りぬことに気がつくことが多い。
身にしみるということは、尊いことである。ありがたいことである。 ものごとをキチッと誤りなくなしとげるためには、事の大小を問わず、そこにやはり身にしみる思いというものが根底になければならないのである。
教えの手引きは、この体験の上に生かされて、はじめてその光を放つ。単に教えをきくだけで、何事もなしうるような錯覚をつつしみたい