ベンチャーキャピタルの歴史について書いた本
若者創業者たちの反乱
- ソフトウェアベンチャー時代になって創業者は若くなっていた
- 事業の立ち上げに資金を必要としないこともあり、VCに対する態度が強くなっていた
やがてザッカーバーグと彼の相棒のアンドリュー・マッカラムがセコイアの本部に姿を見せた。 2人は単に遅刻しただけではなかった。パジャマのズボンにTシャツといういでたちだった。
会議室に入ったザッカーバーグとマッカラムは、寝過ごしたのでパジャマを着たままだと弁明した。 そのメッセージは「セコイアだって? 知ったことか」だった。 名高いベンチャーキャピタルとの面会があっても、目覚まし時計をセットする理由にはならなかった。 誰もが寝坊の話を信じたわけではなかった。 ザッカーバーグはシャワーを浴びたばかりのように見えた。 髪はまだ乾いていなかった。
- ポール・グラハムはこのハッカー文化に基づく、VCとしてYCを立ち上げた
中国という巨大なフロンティア
- 2004年ごろの中国は、世界の産業史において類を見ないほどチャンスが眠っている市場状態だった
中国の経済は年率10%で成長し、インターネットの利用はそのおよそ2倍の速さで拡大していた。 チャンスはあらゆる場所にあった。 普通の中国人がコンピューター、モデム、携帯電話を所有し、そして可処分所得は両親には考えられなかったほど多額になった。 リーシェルは「あとは、資本を振りかけて、かき回すだけだった」と後に語っている。
これは世界の産業の歴史において、めったに起きない瞬間であり、ほかのテクノロジー企業の集積地の成果がまちまちなことを考え合わせれば、なおのこと類いまれな瞬間だった。
- 中国の成功は政治体制によるものだとされがちだが、それに加えてアメリカから持ち込まれたVCエコシステムが大きかった
中国共産党の力が強いあまり、国内外の観察者たちはこの国の技術面での成功を、政治的指導者たちに備わっているとされる先見の明に帰す傾向がある。 しかし、真実はもっと思いがけないものだ。 この成功は、中国共産党の産業戦略の正当性を証明するというよりも、むしろアーサー・ロックが創造した金融モデルの勝利を示していた。
孫正義のアリババへの投資
2000年1月、リンはゴールドマンのアジア太平洋地域会長のマーク・シュワルツに相談した。シュワルツは孫正義と親しく、ソフトバンクの取締役会のメンバーだった。
中国の複数のスタートアップへの投資を進めているが、ニューヨークの本社は好意的ではなかった。「投資先は7社あります。あなたの友人のマサ(孫正義)なら、そのすべてに投資できるでしょうか」と期待を込めて尋ねた。
「アリババです。本当にとても困っています」とリンが答えた。 シュワルツは早速、孫と話し合った。 中国市場は活況に沸いている。ゴールドマンの投資先のスタートアップには、それなりの追加の資金需要があると伝えた。
孫は5年前、ヤフーに出資したときと同じように、ためらいを見せずに即座に承諾した。 「彼は私が示した数字をそのまま受け入れました」。そのときの驚きをリンは後に振り返った。 「『彼はクレイジーだ』と思いました。最もありそうにないやり方で、イエスと言われたようなものでした。本当に興奮しました」
シスコの社外取締役だった孫は、中国でのルーター販売が伸び始めていることを知っていた。インターネットの利用が爆発的に増加しようとしており、その恩恵にあずかるあらゆるものに出資することは理にかなっていた
2000万ドルは彼にとってポケットの中の小銭のようなものだった。 ナスダックの暴落は2カ月後に迫っていたが、孫自身の計算では、当時の彼は地球上で最大のお金持ちの1人だった。
アリババが上場した2014年、孫の持ち株の価値は580億ドルに膨れ上がった。ベンチャー投資の歴史上、最も成功した賭けとなった。
世界で学んだ中国人が第二波をつくる
中国でのベンチャー投資の第一波は、国外を中心とする驚くほど多様な投資家たちが一緒になって牽引した。これに対し、第二波を担ったのは主流のベンチャーキャピタリストたちで、そのほとんどが現地・中国に拠点を置いた。
- 中国版グルーポンのメイトゥアン・ディエンピンへの投資でセコイア史上最大のリターンを上げた
ニール・シェンは世界の最優秀ベンチャーキャピタリストに一度だけでなく、3年連続して選ばれる時期に差しかかっていた。 ワン・シンは億万長者から、桁がもう一つ上の長者(デカ・ビリオネア)に成長し、彼の会社はセコイア・キャピタルにとって、グーグルをも凌ぐ、これまでに最も利益の上がった投資先となった。
しかし、セコイアには新しい金メダリストとなる別の中国のベンチャー企業が出てきた。ティックトック(TikTok)という名前の熱狂的な人気を集める短編動画アプリの運営会社バイトダンス(字節跳動)である。
2000年代後半のクリーンテックブームの凋落
クライナー・パーキンスをめぐる物語は、これらの問いに対する学術研究で確認された内容のとおりの展開となった。 評判は重要だが、投資の成果を保証しない。成功は必然ではなく、世代ごとに新たに獲得する必要がある、ということだった。
一般的には、投資判断がものの見事に裏目に出てしまい、クライナー・パーキンスは失墜したとされている。 2004年以降、同VCはいわゆるクリーンテックのスタートアップを追いかけた。 太陽光発電やバイオ燃料から電気自動車まで気候変動対策に貢献するテクノロジーに賭けた。 08年にはさらにリスクを取って、 10億ドルの新しいファンドを組成し、資金を丸ごとこのセクターのグロース段階の企業群に投じた。 理想主義と希望的観測が入り混じった投資行動だった。 クライナー・パーキンスのパートナーたちのなかでは圧倒的な存在のジョン・ドーアは、地球を救う手助けをするのだと、気後れすることなく公約してみせた。 彼はティーンエイジの娘の1人の言葉をよく引用した。「お父さん、あなたの世代が問題を引き起こしたの。解決したほうがいいわ」。
同時にドーアはグリーン化を追求する経済的な根拠を主張し、ある講演では、聴衆に向かってエネルギー関連のビジネスは6兆ドルにもなるのだと念押しした。 「まあ、このようには言えるでしょうね。グリーンなテクノロジーは、つまりグリーン化の推進は、インターネットよりも大きいのです」
ロシアのユーリ・ミルナーのフェイスブック投資
- “未上場のままでいる"ユニコーン化が可能に
シリコンバレーにとっては分水嶺となる出来事だった。 13年前、孫正義はヤフーに1億ドルを押しつけて、伝統的なベンチャーキャピタルを震撼させたが、ミルナーはフェイスブックの株式を取得するため、手始めに総額3億ドル超を投じた。
孫はほかにもヤフーに、上場に先立って一種のブリッジファイナンス(つなぎ融資)を供与した。 一方、ミルナーはザッカーバーグに対して、資金調達のためにIPOへと進む必要性を実際に先送りできるほど大量の資本を注入した。 DSTからの資金は、フェイスブックが成長のために必要だった資本と、従業員が求めていた株式の流動性の両方を提供したからだ。 この手法を活用すれば、民間のテクノロジー企業はおそらく3年ほど上場を遅らせることが可能だと判明した。 結果的にそれまでの間、膨大な富が開かれた株式市場からは離れた場所で、しかも内輪の投資家たちのためだけに、作り出されることになった。
1995年にネットスケープが上場を果たしたとき、猛烈な勢いで成長するインターネット分野のスタートアップは、必ずしも利益を上げていなくても、株式を公開できることが証明された。 この事実によって90年代後半のドット・コム・バブルが解き放たれた。 2009年に行われたミルナーからフェイスブックへの資金提供は、逆のメッセージを発信していた。 成熟し、儲かっている企業には、株式を非公開のままにしておく選択肢があるということだった。
ハンズオンスタイルで成果を出したa16z
ベンチャーキャピタリストは、技術面に詳しい創業者を「本物のCEO」と交代させるよりも、技術屋が成熟した経営者となるよう指導すべきだった。 ピーター・ティールの考えでは、スーパースター級の創業者は、まるで魔法の力を与えるクモに噛まれでもしたかのように、スーパーなパワーを完全に備えた上で起業していた。Yコンビネーターのポール・グレアムも、学ぶことはほとんどないと説いた。「利用者が大好きになるものを作る。そして支出を収入より抑える。これらを実行することは本当に困難だろうか」と強調した。
「マーティン、価格設定以上に企業価値に影響を及ぼす意思決定はないんだ」。ホロウィッツは託宣を告げるようなきっぱりとした口調で話した。 ソフトウエア会社がこれまでに誰も見たことがない独自の新製品を売り出すとき、価格設定の機会は一度しかない。どの価格帯を選んでも、それが顧客の心に残り、後の値上げは難しくなる。さらに、価格設定次第で会社の利益率が大きく変わる。
初めての起業家はなかなか気づかないが、この種の利益の違いは会社の価値を変えてしまう可能性がある。
最初から投資家を魅了したStripe
2009年、 20 歳と 18 歳になっていたパトリックとジョンは夏をパロアルトで過ごした。 2人は決済を必要とする電子商取引サイトの使い勝手を一新するようなビジネスのアイデアを練った。 パトリックはMITでのサイドプロジェクトとして、ウィキペディアをダウンロード可能にする仕組みを構築してみたが、課金がどれほど難しいことかに気づいた。 クレジットカードでの支払いは、費用がかさみ、うまくゆかない場合もあった。 ペイパルという当初期待されたサービスが存在していたものの、オンライン決済は依然として暗黒時代が続いていた。 コリソン兄弟はこの問題点を解決するため、お金の流れを管理し、支払人の情報を確認し、不正を検知する決済プラットフォームを築くことにした。 電子商取引業者は、サイトを運営するためのソフトに数行のプログラムを張りつけるだけで、コリソン兄弟のサービスに連結できるようにする計画だった。 コリソン兄弟のこのアイデアにはベンチャー投資家のほとんどが興味をかき立てられそうだった。
- 最初の投資を受けたときはアイデアは固まっていなかった
グレアムはパトリック・コリソンを食事がてら自宅に招いた。 肩肘の張らない雰囲気で議論するためだった。 アルトマンも呼んだ。 3人が集まったとき、パトリックはまだアイデアを詰め切れずにいた。 デジタル銀行を始めたい気持ちもあった。 これはアルトマンには事業として大きすぎるように思えた。 「当時、私はそれを最良のアイデアと考えなかったが、パトリックのことは素晴らしいと感じた」とアルトマンは後に語った。 そして、キッチンのテーブルでグレアムとアルトマンはエンジェル投資家として小切手を切った。 まだ出来上がっていない会社の2%の持ち分として、1万5000ドルずつを渡した。
創業者に甘い風潮が作り出したポーカーゲーム
グーグルやフェイスブックが前例となってシリコンバレーでは創業者に優しい慣行が出来上がったが、ホームズはこれを最大限活用した。 セラノスにおける彼女の持ち株は、1株につき100個の議決権が付与され、彼女の行動に対するチェックが働かなくなった。 また、彼女の不誠実さはシリコンバレーの文化を反映していたとさえ言えた。 ペン入力のコンピューターの開発を目指したGO(ゴー)の大失敗以来、そして、それ以前も起業家は技術面の性能を実証するよう求める声を無視してきた。 起業家は完成するまでごまかしてきた。
金融環境も無責任な振る舞いを助長した。 連邦準備理事会(FRB)が低金利を維持している限り、「安い資本」は豊富にあって、お金が無造作に使われてしまう。 あまりに大量の資金が、あまりに少ない投資案件を追いかけていた。 そして資金提供者は人気企業に取り入るために、ほとんど監督業務の放棄を迫られているも同然だった。 ベンチャーキャピタルは革新的な若い企業に資金を提供する最も優れた形態として自らの地位を確立したはずだった。 ところがこの業界は無謀なレイト・ステージの投資家たちがユニコーンの企業群とポーカー・ゲームに興じることを防げなかった。