HONDA創業者の本田宗一郎さんの半生を書いた本
貧乏な生まれ育ち
幼少期 / 小学校 / 中学校
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1906年 静岡県浜松市 生まれ
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鍛冶屋の息子、貧乏な家
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金がないことで差別された経験
- 着物も買ってもらえず、ボロボロの格好 (ティッシュペーパーは当時なかったため、鼻水を拭きすぎて、袖が固まっていた)
- 隣のお金持ちの家の五月の節句の武士の人形を見に行ったら、「お前みたいなきたない子はきちゃいけない」と追い返された
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手先が器用で理科の授業だけは好きだった
- テストなどの読み書きはもっぱらダメ
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小学校2,3年のときに村に初めて自動車がやってきた
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自動車を見に行き、滴り落ちた油の匂いを地面に鼻をこすりつけて嗅いだ
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中学校を卒業する頃に、父親が鍛冶屋から自転車屋に商売替えをしていた
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父親が取っていた自動車/自転車業界の雑誌をよく読んでおり、ある時広告欄にある「アート商会」という自動車修理工場の求人広告が目に入った
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自動車修理工場で働いてみたいと思っていたので、弟子入りしたいと手紙を出したらOKの返事が来た
丁稚奉公 → 才能が開花
- 1922年、15歳で単身で上京し、東京の湯島にあったアート商会で丁稚奉公を開始した
- 最初の半年間はオーナーの子守と掃除しかさせてもらえなかった
- 何度も荷物をまとめて田舎に帰ろうと思った
- 当時 アート商会は東京でも数少ない自動車修理工場だったので、非常に繁盛しており、ある忙しい日に初めて修理をやらせてもらえた
- 1923年に関東大震災が発生、従業員の多くが田舎に帰り、かつ自動車の修理の依頼も多くなったため、修理の仕事をたくさんやらせてもらえた
- 機械いじりが好きで、手先が器用だったため、ぐんぐん修理の技術力が向上
- 1924年、18歳の時、1人で出張で消防車修理に行かせてもらう → お客さんに最初は舐められるも、完璧に消防車を直したら神扱いされる成功体験
- 「技術」のありがたさを知る
22歳で独立し、破天荒な生活
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1928年 21歳の時に、腕を認められ、「アート商会 浜松支店」 開業
- アート商会で唯一のれん分けを許された
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浜松には当時自動車修理工場が2,3件しかなく、すぐに評判が立った
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初年度の利益は80円 (現在の貨幣価値で約40万円)
- 小学校教員の初任給が50円程度
- ref: https://www.boj.or.jp/about/education/oshiete/history/j12.htm
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当時木製だったスポーク(車輪の骨組みの部分)を金属で作って特許を取り、インドにも輸出するなど売上を伸ばした
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1931年 25歳の時には毎月1,000円以上の儲け (現在の貨幣価値で約500万円)
- 従業員50名
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破天荒に遊びまくっていた
- 自家用車を持っているのも珍しいこの時代に外車を2台保有
- 芸者を呼んで、飲んで歌ってどんちゃん騒ぎ
- 芸者を乗せて飲酒運転して、橋から川に突っ込む大事故
- 税務署員と揉めて、キレて税務署の建物にホースで水をかけ、新聞に載る
- 芸者を料亭の2階の窓から外に放り投げる (電線に引っかかったので助かった)
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一方で多くの発明
消防車に強力な放水ポンプを取り付けたり、バスの乗客数を増やす改装を施したりするほか、クルマの下にもぐり込まないで済むリフト式修理台も発明している。
修理から「製造」への挑戦
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修理工場から弟子がたくさん独立していき、弟子と競合することになるのが嫌だったため、製造への進出を考える
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1934年~1936年頃(30歳前後)にピストンリングというエンジンの部品の製造研究を開始
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全く開発できず、浜松高工(現在の静岡大学工学部)の教授にアドバイスをもらい、素人すぎると自覚 → 聴講生として2年間勉強
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1937年になんとかピストンリングの開発に成功
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1939年(33歳)にアート商会浜松支店を弟子に譲り、東海精機重工業を設立
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ピストンリングの量産化に苦労 → 2年後にようやくトヨタ(当時大手)に納品できた
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太平洋戦争に突入 → トヨタから40%出資を受ける
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戦時中はピストンリングに加えて軍の船や飛行機の部品の製造も行っていた
- 戦時中は作りたいものが作れないフラストレーションが溜まっていた
東海精機の売却から無職へ
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終戦、三河地震で製造機械が壊れたのもありピストンリングの製造が難しくなった
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トヨタの下請けで部品製造の話が来たが、断る
終戦となってピストンリングの製造は完全にお手あげとなった。東海精機の株主であるトヨタからはトヨタの部品を作ったらという話があったが、私は断然断わって私の持ち株全部をトヨタに売り渡し身を引いてしまった。戦時中だったから小じゅうと的なトヨタの言うことを聞いていたが、戦争が終わったのだからこんどは自分の個性をのばした好き勝手なことをやりたいと思ったからである
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終戦後の1945年(39歳)にトヨタに東海精機の持ち株全部を45万円で売却 (現在の貨幣価値で 約1,000万円 ~ 2,500万円)
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売却後、次に何をやろうかと考えつつ、「人間休業」宣言だと言い、1年間 遊んで暮らした
尺八などを吹いて遊んで暮らした
さち夫人の証言
「**東海精機の株を、トヨタさんに全部お譲りして、無職になってしまったの。軍がいばりくさる時代が終わってよかったなぁ。これからしばらくは何もしないよ。お母さん、当分養っとくれって、本当にまるで働かない。**食糧難の最中でしょう、お父さん(本田)のほかに育ち盛りの子供三人、庭を耕して野菜つくったり、私の実家は農家ですからお米を分けてもらいに行ったり。あの人は庭に出ても草一本むしらない。ひがな一日、庭石に腰掛けてるだけ。ご近所で評判の『何にも仙人』でしたよ。夜になると友達を集めて、知り合いの酒屋さんに内緒で売ってもらったドラム缶一本のアルコールで酒盛り。お父さんらしいのは、アルコールに炒った麦と杉の葉を入れて、ウイスキーっぽく工夫するところ。やらされたのは私ですけどね。やれ麦が焦げ過ぎたとか、口だけはやかましく注文して。
そのうち、人のウワサでは製塩機をつくったとか、アイスキャンデー製造機をつくったとか聞こえてくるけれど、本人は何も言ってくれない。塩一つまみも、アイスキャンデー一本も家に持って来ないんです」
再起業し、オートバイへ進出
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戦後当時は衣服が不足していたため、儲かる市場だった織物機械を作ることを決めた
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1946年(40歳)に本田技術研究所を設立
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→ 織物機械の開発は資金不足ですぐに断念
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1946年秋、そこら中にあった戦時中に軍が使用していた通信機用の発電エンジンに目をつけ、それを自転車に取り付けた「バタバタ」というエンジン付き自転車を開発
1946年の秋、友人の家を訪れた本田は、そこで偶然、小さなエンジンに出逢う
たまたま知人から預かっていた旧陸軍の六号無線機発電用エンジン。これを見た本田の頭に、アイデアがたちまちひらめく。
この出逢いが、彼の向かう将来を決め、後のホンダを生むことになる決定的瞬間だった。本田は、もともと自動車修理工でエンジンはお手のもの、そして、発明家である。
「これを自転車用の補助動力に使おう」。
**自転車に補助エンジンを付けるというアイデアは、昔からあった。イギリスなどで製品化され、戦前の日本にも少量ながら輸入されていた。**そもそも、モーターサイクルの発祥そのものが、自転車に動力を付けることから始まったのだ。補助エンジン付き自転車は、モーターサイクルの祖型・原型に近い。しかし、あったというだけで、戦前には全く普及していない。 だが、戦前より劣悪になっていた日本の交通事情の中では、大衆の足は自転車だった。
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戦後の当時は公共交通機関が混乱していて、自転車で移動する人が多かったため、飛ぶように売れた
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軍の放出品だったエンジンがなくなってしまったので、自社でエンジン製造を開始
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父親の土地を売って得た資金で研究開発を進め、自社エンジンの開発に成功
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それを使ってA型バイクを発売
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1948年 本田技研工業株式会社を設立
- 従業員34名、資本金100万円
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1949年にはドリームD型を発売
- エンジン付き自転車からオートバイへ
- ref: https://gazoo.com/feature/gazoo-museum/car-history/14/01/17_1/
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バイクは月に1,000台以上飛ぶように売れていたが、事業規模が拡大していくにつれて、本田宗一郎の経営力不足が露呈し始めた
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→ 戦後の混乱もあり、売掛金の回収に苦戦、資金繰りが悪くなり、倒産の危機に陥るという大ピンチを迎える
相棒 藤沢武夫との出会い
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そんな時、共通の友人経由で「販売に強い男」として藤沢武夫を紹介された
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趣味趣向、性格は正反対だったが、「自分に無いものを持っている」と直感し、わずか5分でタッグを組むことを決めた
藤澤という人間に初めて会ってみて私はこれはすばらしいと思った。機械についてはズブのしろうと同様だが、こと販売に関してはすばらしい腕の持ち主だ。
つまり私の持っていないものを持っている。私は一回会っただけで提携を堅く約束した。
これに関連して、つねづね私の感じていることは、性格の違った人とお付き合いできないようでは社会人としても値打ちが少ない人間ではないかということである。
- 藤沢は1910年生まれで本田さんの4個年下 (本田宗一郎43歳、藤沢武夫39歳)
- 東京で経営者の息子として生まれ、鋼材問屋で営業マンとしての才能を開花 → 切削工具の制作会社 → 福島に疎開して製材業 → 池袋で材木店 など自身で複数の会社を経営していた人物
- 「技術を持った、良い製品をつくれる男と組んで、それを売りたい」
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1949年に藤沢さんは保有していた製材所を売却して、本田技研工業に出資して参画
- 「技術の本田、販売の藤沢」という役割分担で、お互いの担当領域には口出ししないことを決めた
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藤沢さんの手腕により、なんとか倒産の危機を乗り越える
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1950年 東京に進出、東京に営業所と工場を創った
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1951年 民間業者の間で輸出振興と輸入防止(いわゆる保護貿易)を政府に依頼する動きがあったが、本田はこれに反発して参加しなかった
- 海外との自由競争の中で民間業者が技術で解決すべき問題
今は海外の製品の方が優れているから国民はそれを買う、日本の製品のほうが優れていれば自然に国民は国内のものを買うようになる
- 海外との自由競争の中で民間業者が技術で解決すべき問題
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世界と戦えるエンジンを開発することを決意 (45歳)し、1952年秋 海外の最新の製作機械を4億円分購入する大きな投資を行う
「良品に国境なし」
日本だけを相手に日本一は、真の日本一ではありません。 世界一であって初めて、日本一となり得るのであります。
そのころ本田は「日本一より世界一だ」と、なにやら逆説的なスローガンを掲げて社員を煙に巻いていた。朝礼でミカン箱の上に立つ。目はぎらぎらしていて、つばを飛ばす。「あのころの演説は気持ちが先に行っちゃって、浜松弁の言葉がジャンプして何言ってんだかわかんない。話は中間説明抜きだからよけい理解できない。気迫はすごかった」と古参社員は振り返る。
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1954年 世界一のエンジンを作って「マン島TTレースで優勝する」と宣言した
- イギリスとアイルランドの間にあるイギリス領の島
- 「モーターサイクル(二輪車)のオリンピック」
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1954年 この宣言とは裏腹に、最大の経営危機を迎える
- 1954年 店頭公開
- 1954年には朝鮮特需の反動の不況 と ドリーム号の故障クレームが重なり、資金繰りが厳しくなる
- 藤沢さんのハードな資金調達によってなんとか乗り越える
マン島TTレースで世界一を証明
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藤沢武夫が「経営危機は俺がなんとかするから、本田さんは目標であるマン島TTレースを見に行ってくれ」と背中を押し、1954年 本田宗一郎、マン島TTレースを見に行く
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圧倒的な差に衝撃を受け、ここで優勝するなんてとんでもないことを宣言してしまったと思った
- 世界トップメーカーは当時のホンダのオートバイと比べて3倍の馬力
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オートバイ先進国だったイギリス・ドイツ・フランス・イタリアを周って最新の部分を買い集め、持ち帰る
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これまでにない高性能なエンジンの開発は想像以上に難航、政府がレースのための外貨持ち出しの許可を渋るなどでもめたことにより、時間がかかる
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5年後の1959年にレースに初参加
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初参加から2年後の1961年には優勝し、HONDAは世界に通用する技術を持っていることを証明した
スーパーカブの世界的大ヒット
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一方、このレースへの挑戦の裏でビジネス的にも、HONDAを世界に飛躍させる大成功を起こしている
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1956年 本田と藤沢が2人でヨーロッパへ視察
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藤沢が「50ccの小型バイク」に勝機を見出し、本田宗一郎に開発を依頼
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本田は「スピードと馬力のある最先端のエンジン」にこだわって反対 → 藤沢が説得
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1958年に「スーパーカブ」発売
- ref: https://global.honda/jp/guide/history-digest/75years-history/chapter1/section1/page2.html
- 藤沢が宣言した月3万台(年間36万台)の計画を大きく超え、発売初年度 41万台の販売
実車そのままに模型が仕上がったところで、本田は藤澤を研究所に呼んだ。かけつけた藤澤に、本田はおよそ十五分ほどかけてクルマの今までにない特長をまくしたてた。
「どうだい専務。これならどのくらい売れる?」 「うん、これ売れる。絶対売れる。まあ、三万台だな」 立ち会った研究所員が「年間三万台ですか」と口をはさんだ。
「バカ言え、月に三万台だよ!」と藤澤。
さしもの本田も「ええ!」と一瞬目をむいた。
ホンダの二輪車の販売台数が月六、七千台。 日本中のオートバイの販売台数が月間高々四万台である。一機種で月三万台という数字に度肝を抜かれたのも無理はない。
だから「今度のクルマは臓物の見えないクルマに」とも注文した。
電気洗濯機、掃除機、冷蔵庫が「三種の神器」として普及し、主婦が消費今権を握る時代になっていた。 オートバイも、女性も乗れる家電感覚のものが望ましい。 フロントフェンダーやバッテリーボックスの素材にポリエチレンを採用することで曲面を押し出したスマートなモデルは、藤澤のイメージにもぴったりだった!
月三万台という成算が藤澤にあったわけではない。営業はそれくらい売る覚悟だからしっかり作ってくれと圧力をかけたのだ。
販売を仕切っていた川島喜八郎の証言ー。
「**藤澤さんのすごいところは、スーパーカブの開発の時に、市場にふさわしい商品価格を本田さんに前もって提示していたところです。本田さんはそれに応じて開発を指示する。だが、技術屋の良心で、妥協できないところはどんどん直すからコストが上がります。ところが藤澤さんは、この商品のマーケットではこの価格であるべし、とコストを無視した価格を付けた。**びっくりしましたねえ。五万五千円ですから。月千台単位しか売れなければ、コスト割れもいいとこです。しかし、三万台売れればコストが合う。これにぜひとも合わせてもらいましょう、と小売り価格を設定してしまった
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藤沢の提案で、1959年にアメリカ・ホンダモーターを設立
- 独自の販売網で売って出る
アメリカは、まさに自動車の国だった。 市民にとって自動車は下駄がわり、生活に父かせぬ必需品である。 一方、オートバイを乗り回しているのは「ブラックジャケット」と呼ばれる革ジャンパーを着た暴れ者で、年間六万台くらいしか売れない。
「アメリカはとうていオートバイの国ではない」と実感した川島は「手始めとしてはアメリカよりも東南アジアの方が手がけやすいのではないか」と提案した。
だが藤澤の考えは違った。アメリカこそホンダの夢を実現できる主戦場というのが持論だった。
「資本主義の牙城、世界経済の中心であるアメリカで成功すれば、これは世界に広がる。逆にアメリカで成功しないような商品では、国際商品になりえない。やっぱりアメリカをやろう」と言い出した。
輸出にあたって商社を使おうという意見を述べる役員もいた。これについても藤澤は、ホンダ直営の販売会社(アメリカン・ホンダ)を新設して独自の販売網を開拓すべしと主張した。
- アメリカで大ヒット
アメリカの消費者は国籍、企業の大小を問わず良い製品であるなら先入観抜きで評価し、購入する。ソニー、ホンダもアメリカ市場で製品が評価されて飛躍につながった。藤澤の「まずアメリカから」という発想は的を得ていた
- 独自の販売網で売って出る
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2年後の1961年にヨーロッパ・ホンダを設立
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スーパーカブは世界的に大ヒット
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世界一のバイクメーカーになった
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スーパーカブはモビリティの歴史において伝説的な商品
- 8年で500万台
- 15年で1500万台
- 現在までで1億台以上
- 「エンジン付きの乗り物で生産台数世界一」
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「現地の人々を豊かにする」心持ちでなければ海外で成功できない
日本を豊かにするために工場建設をするのではなく、その土地の人を豊かにする方法を考えねばならない
四輪車への挑戦
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スーパーカブが売れ始めて資金ができたため、1958年に本田技術研究所内に四輪車の部署を新設し、四輪車の開発を開始
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1961年 特振法という「既存の大手メーカーに資本を集中させるために、四輪車への参入を許可制にする」法案が提案され、本田宗一郎はこれに猛反発
「新規参入を認めないとは何事だ。役所にそんな権限はない」
自力でオートバイで世界を制した経験から、「政府が介入すれば企業の力は弱まる。
貿易自由化には自由競争が一番だ。参入を制限しても、良品に国境なし。良い製品は売れる。自由競争こそが産業を育てるんだ」と、特振法案に真っ向から立ち向かった。
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特振法は結局廃案になったが、急いで四輪車を開発し、発売
当時、日本国内で販売する自動車の車体色に真紅や白を使うことは、消防車、救急車、パトカーなどと区別するために禁じられていた。 しかし、派手好みの本田は技研開発課長の秋田貢を呼びつけ、大声でこう命じた。
「今度出す車は、赤でいくぞ!」
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このような自由で反逆的な本田さんの言動を見て優秀なエンジニアが集まってくるようになった
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二輪車のノウハウがあったこともあり、半年で四輪の試作車を完成 → 発売
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四輪車でもレースで世界一になるとぶち上げ、本田宗一郎をトップとしてF1への参戦
- 1964年 初参戦 → 惨敗
引退劇
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エンジン方式: 空冷 vs 水冷 論争
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1966年 F1で若手が作った当時注目されていた水冷のエンジンで優勝 → 本田宗一郎が空冷にこだわり、翌年空冷に戻して再参戦 → 惨敗し、F1撤退
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1966年ごろから排ガス規制が強まっており、低排ガスエンジンの研究開発をしていたが、空冷ではどうしても低排ガスなエンジンをつくることができなかった
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1969年(本田宗一郎 63歳) 若い技術者達が水冷で作ろうとしていたものを、本田宗一郎が空冷にこだわって、作り直させて発売したH1300が売れなかった
杉浦は「強力な創業者がいて、しかもその人が技術的にトップに立っている。加えて、過去にどえらい成功体験を持っている。そういうリーダーがいるということは、行く所まで行ってしまわないと、途中で止めるということはとてもできない企業体質だった」と、当時の混乱ぶりを振り返る
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藤沢武夫から本田宗一郎に直談判 → 水冷で製作することにOKを出した
こと技術に関して、本田は信念のかたまりであり、澤が口出ししないと決めた聖城である。覚悟を決めた藤澤は、初めて聖域に踏み込んだ。
「あなたは本田技研の社長としての道をとるのか、あるいは技術者として残るのか。どちらかを選ぶべきではないか」
しばらくの沈黙の後に本田は「俺は社長としているべきだろう」。
「水冷をやらせるんですね」
「そうしょう。それが良い」ーー。
ひとりの天才が生天才であり続けることはありえない。かんじんな時期に天才として大きな事業や発明を実現するにすぎない。まして、自動車をめぐる技術はすさまじい勢いで進んでいる。天才、本田宗一郎もその盛りを過ぎたことを示す象徴的な出来事だった。
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1970年に 本田宗一郎と藤沢武夫の二人三脚体制から、経営陣を一新
- 本田宗一郎は技術のトップからも降りる
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1970年にアメリカでマスキー法という厳しい排気ガス規制法が成立
- アメリカの3大自動車メーカー含めて世界中でどのメーカーもクリアできない基準で、大手メーカーは政治で解決しようとしていた
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1972年にCVCCエンジンを開発し、世界で初めてマスキー法の基準をクリアした
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1973年にCVCCエンジンを搭載したホンダ・シビックを発売し、大ヒット
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1973年 これを引退の花道にしようと、藤沢が辞任を表明
三日間くらい、寝不足続きに考えたとしても間違いのない結論を出せるようでなければ、経営者とはいえない。平常のときは問題ないが、経営者の決断場の異常事態発生のとき、年齢からくる粘りのない体での判断の間違いが企業を破滅させた例を多く知っている。・・・・五十で死んだ信長には男性的展開の未来がえがけるが、年を重ねた秀吉にはそれがない 七三年三月、副社長の藤澤は、「おれは今期限りで辞めるよ。本田社長にそう伝てくれ」と専務の西田通弘に命じた
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それを聞いた本田宗一郎はともに引退することを表明
「おれは藤澤武夫あっての社長だ。副社長がやめるなら、おれも一緒。辞めるよ」
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本田宗一郎 67歳、藤沢武夫 63歳でともに引退
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1988年 藤沢が心臓発作で死去
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1991年 本田宗一郎 肝不全で死去
生前、本田は遺言代わりに「社葬をしてはならない」と言っていた。「社葬なんかすれば交通渋滞の原因になり、世間に迷惑がかかる。そんなことはクルマ屋として絶対にやってはならない」