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70/ ユーザーファースト 穐田誉輝とくふうカンパニー

アイシーピー創業者でカカクコムやクックパッドの経営を担った穐田誉輝氏の歴史を綴った本

アイシーピー創業者でカカクコムやクックパッドの経営を担った穐田誉輝氏の歴史を綴った本

穐田氏のキャリア

  • 1969年 千葉県生まれ

「親はいずれ死ぬし、サラリーマンの稼ぎじゃ知れてる。妹の面倒を見るには起業するしかない」 子どもの頃から冷静に将来を見通していた。だが、それは何も穐田に限ったことではない。 わたしが知る限り親やきょうだいに障害者を抱えて生活している人たちはおろおろしないし、嘆き悲しんだりもしない。 つねに冷静だ。現状と将来を見積もりながら生活している。

  • 青山学院大学経済学部を卒業後、24歳で日本合同ファイナンス(現ジャフコ)に新卒入社

ベンチャーキャピタリストにも、投資先経営者にも運がなければその会社は大成しない。 新卒で日本合同ファイナンスに入社した穐田は同社にいた時代、一生懸命に働いた。 だが、幸運は巡ってこなかった。 彼は大学時代にすでに投資と経営の能力を育んでいた。 しかし、強運と幸運はまだ持っていなかったのである。

「絶対に伸びる」と思ったのがドン・キホーテとユニクロだった。

いつまでも、どこまでも伸びていく企業の特徴は経営者が客を見て、客のためになることをやっている。自社の都合で商品やサービスを開発したりはしない。

自分が経営者になるとすれば、客を見る。ユーザーファーストでなければ会社は成長しない

会社とは上場がゴールではなく、むしろ、それからも成長を続けられることが大事だと彼はあらためて感じた。 つまり、上場することを決めたものの、時間がかかりすぎたとみられる会社にはなるべく投資はしない。

日本合同ファイナンスを辞める前の年、穐田は人生を変えるレポートを読んだ。 1995年の夏、野村総研が出したアメリカの近未来社会を予測したレポート(『米国に見るダイレクト・マーケティングの展開』正田雅史 野村総合研究所1995年7月 10 日号)だ。 そこには「アメリカは情報化社会になる。インターネットで未来社会は劇的に変わる」とあった。 この時点でそこまで断言したレポートは同レポートしかなかった。 「インターネットによる情報化社会で成長が期待できる業種は3つある。そのうちもっとも伸びるのは『情報仲介業』」 例に挙がっていたのがアメリカの情報仲介業だった。 会員向け電話サービスで、会員には「この商品をもっとも安い価格で売っているのはこの販売店です」という情報を提供していた。 いわば商品価格の比較サイト、商品カタログサイトの先駆けだ。 穐田はインターネットの使い方を知ったと思った。

  • 27歳で中古車買取企業のジャックに転職

穐田が中古車の買い取り企業ジャックに転職した理由は、同社が上場を目指して成長していたからだ。ジャックが上場したら穐田は手に入れた資金で独立すると決めていた。

29歳の穐田誉輝は雨の日でも休日になると「カートレット八王子」へ出かけていた。 カートレットとは中古車(カー)のアウトレットのこと。つまり、販売用の中古車が並ぶヤードのことだ。 1998年。中古車買い取り企業、ジャックに入社して3年目のことだった。 彼は青山学院大学を出て、新卒でベンチャーキャピタルの日本合同ファイナンス(現・ジャフコグループ)に入った。 だが、入社した時点から「一生、この会社に勤めよう」とは思っていなかった。 日本合同ファイナンスに入ったのは投資とビジネスについてキャリアを積むため知識を増やし、経験を積んだら、上場を目指すベンチャー企業に移り、自社株を手に入れ、独立して始めるビジネスの元金をつくるつもりだった。 人生の方向を先に決めてから就職先を選んだのである。 冷静に自分の人生を見積もり、前に進むことだけを考えていたのだった。

ジャックの給料は高くなかった。だが、上場したら大きな金が入ることになっていた。 独立する資金をつくるためには寒さも雨が染みとおってくることも問題ではない。 肉体的にはつらい状況だったが、希望があったから寒さを紛らわすことができたのである。 その時、彼は貧乏だった。 自社株を買うために年利にして16パーセントという高利の金を借りていたから、給料のほとんどは利息を払うために出ていった。

もしジャックが上場しなければその状態が一生続くかもしれない。 それでもいいかと時々考えたけれど、やはり金は欲しかった。 金持ちになって、その心境を味わってみなくてはいけない。金持ちを経験したかった。

成長性を見込まれたジャックは1999年、店頭市場(当時)に株式を公開することができた。 方々から金を借り、ジャックの株式に投資していた穐田は店頭公開で8億円前後の含み資産を持つ資産家になることができた。 入社前に決めていた通り、彼はジャックを退社して投資家として会社を設立する準備を始めた。

  • 30歳でアイシーピーを創業

ジャックが上場した時(1999年)、穐田の持ち株の価値は8億円前後もあった。ところがネットバブルの崩壊で株の価値は2000万円まで激減してしまったのである。

当時、株は穐田のもとに戻ってはきていたが、借金の2億5000万円にはほど遠い。 しかし、本人はまったくギブアップするつもりはなかった。ぎりぎりの生活をしながら、自らが見込んで開拓し、投資した会社の経営者になって、必ず株式を公開すると決めていた。見込んだ会社の名前はカカクコム。 パソコンの価格比較をするサイトだった。

アイシーピーは発足した当時、大勢の優秀な人材を集めていました。それこそ興銀(日本興業銀行、現・みずほ銀行)や総合商社やコンサルから来ていました。アイシーピーは投資だけをしようとしたわけではなく、投資と事業をつくることの両輪でやっていこうと決めていたからです。

あの時、僕は 26 歳。穐田さんは 31 歳でした。穐田さんは長髪の茶髪で全身Gucci。本人は『これがオレたちの会社のブランディングなんだ』って言ってましたね。 『オレたちはチャラチャラしてるけど、ガーッと働いてるやつらだと世の中に思わせればいい』って。まあ、僕もチャラチャラしてましたね、あの頃は。

アイシーピーがやろうとしていたことははっきりしてました。現状の生活に不満があったから、ネットで生活を改善するサービスをするんだ、と。穐田さん、口を開けば『こんなサービスは使いづらいからダメ』と言ってました。ネットを使って変えるべきサービスのリストをつくっていて、100以上はありましたね。レストランの口コミやレシピのサイトはそのなかから生まれてきたんですよ。

  • 31歳でカカクコムの経営に参画

カカクコムはいつの間にか外資大手のディールタイムに勝利していたのだった。 勝った原因は槙野の執念とチームの力だ。手入力と徹夜作業と気合とアキバオタクならではの細かいところまでの追求心がディールタイムを撃退したのだった。 ディールタイムのサイトにはパソコンの販売店、仕様、価格が載っていた。 一見、カカクコムと同じだ。だが、カカクコムは仕様のディテールまで追求して載せていたのである。 パソコンの場合、型番が同じであっても、最後の文字が「W」だとしたら、白のパソコンで、「R」だったら赤のそれだったりする。ユーザーはそこまで追求する。 モノを買おうとする人間にとって重要なのはディテールだ。細部までこだわって情報を載せたからこそ、オタクチームは勝つことができた。 すると、カカクコムの快進撃を見て、後発の同業者が出てきた。しかし、それもまたオタクチームは気合で倒した。ベンチャー企業の力とは結局のところ気合だ。 頭のよさではない。今に至るもカカクコムを抜き去るような価格比較サイトは出てきていない。

  • 34歳でカカクコムをマザーズに上場

カカクコムは2003年には東証マザーズに上場した。 穐田は大きなキャピタルゲインを手にする。彼が自己破産の恐怖から逃れたのはこの時だった。ジャックに入った1996年から2003年まで続いた長い借金生活に別れを告げ、やっと金のことを心配せずに生きていくことができるようになった。

  • 36歳でカカクコムを東証一部に指定替えし、社長を退任

同じ年の 12 月、クックパッドは東証一部に指定替えになった。 ユーザー数は伸びる一方だったが、資金力を持つ楽天が投稿レシピのジャンルに参入してきた。 当時、社内は「いったい、どうなるだろう」と戦々恐々だった。 楽天は資本力に物を言わせ、さまざまな媒体で「楽天レシピ」の宣伝を打ち、クックパッドを圧倒した。 しかも、ユーザーは楽天レシピに投稿すると、楽天ポイントを 50 ポイントもらえることになっていた。 クックパッドに投稿してもお金やポイントはもらえない。楽天レシピはスタートと同時に着々とユーザー数を伸ばしていった。

穐田は動じなかった。カカクコム時代、アメリカの巨人、ディールタイムが参入してきたが、アキバオタクがMBAを持つ優秀な人間たちを撃破したことをちゃんと見ている。 勝負は情熱だ。クックパッドもまた楽天レシピに負けるはずがないと確信を持っていたのである。 理由はふたつあった。 ひとつはレシピのような実用サイトに来る人の大半は宣伝よりも口コミを重んじること。

もうひとつは投稿に対するポイントの付与だ。 「投稿にお金を払ったら、主婦の内職になる。クックパッドに投稿する人はお金が欲しいわけじゃない。料理をみんなに見てほしい。『私のレシピで作ってほしい』と投稿してくる。もし、ポイントやお金を払うようになったら、稼ぐために短時間でいくつも投稿してくる人間が出てくる。結果的にレシピの質は落ちていくし、サイト全体が殺伐とした雰囲気になってしまい、本来のユーザーが離れていく。だいたい、僕自身、お金目当ての人が投稿したレシピなんか見たくない」

  • 38歳でクックパッドの社外取締役に
  • 43歳でクックパッドの代表に就任
  • 47歳でクックパッドの代表をお家騒動で退任
  • 49歳で個人でクックパッドから買収していたオウチーノやみんなのウェディングを含むホールディングスとしてくふうカンパニーの会長に就任

穐田氏の強み

彼の能力とはこれだ。 誰よりも早く世の中の情勢を分析すること、消費者が近未来に関心を持つモノやサービスは何かを推測すること、そして、消費者の立場になること。この3つだ。

1番目の能力は世の中の情勢を人より早く知るだけではなく、つきつめて考え、自分の意見にまとめることだ。

2番目の能力は考える時や仕事をする時は全集中することだ。食事も寝ることも放棄して取り組む。

3番目は客の立場に立つ。客の都合で考えること。

  • 仲間集め

穐田さんってふわっと仲間を集めるのが上手なんです。仕事にギアが入ったような人たちを集めるのがうまい。

一体感のあるチームで、そのことも嬉しかった。毎日、仕事が終わると居酒屋へ行ってましたね。酒ばっかり飲んでいた。

「穐田さんと最初に会った時の印象は黒い服を着て、ぼそぼそしゃべる人だなって。それはカカクコムの頃でしたね。

穐田が持っている能力とは「負け」に慣れること。負けた時に苦笑できることだ。

  • マーケットを見極める力

穐田がジャックに入ったのは中古車流通が整備され、マーケットが拡大しつつある時期だった。 そして、ジャックを辞めた後、彼は投資家となり、投資したカカクコムの社長になる。 その時はちょうどパソコンマーケットが拡大している最中だった。 カカクコムの社長時代にはサービスの一環として、グルメレビューのサイト「食べログ」を始めた。 この時は個人経営の飲食店が増えている時期だった。 次に社長になったクックパッドの時代には人口は頭打ちになっているにもかかわらず、調味料、ハーブ、スパイスが多様化する時代だった。 彼が関わったのは中古車、パソコン、飲食店、食料品、調味料……。 バブルが崩壊し、失われた年代であるにもかかわらず、彼が起業し、インターネットを駆使して経営に携わったジャンルはいずれもマーケットが大きくなったり、多様化したりしているジャンルだったのである。 そして、彼は意図してそのマーケットを選んだ。

食べログのようなグルメサイトが人気を集めるようになったのは、チェーンではなく、個人店がさまざまな種類の新鮮な食材を簡単に、リーズナブルに仕入れることができるようになったからだ。インフラが整ったことで、個人が経営する飲食店の出店が始まったのだった。

IT革命の本質とは何かを考えた時、穐田は情報機器と通信のコストが劇的に安くなったことだと分析した。 経済的な観点から見た場合のITの特徴は、情報処理コストと通信コストが劇的に低下したことだ。

ユーザーファーストの経営

穐田さんが言ったことは『ユーザーのために何をするか』だけ。『ユーザーのために何かをする人』だけを集めて、ユーザーのために何かをさせたのが穐田さん。

彼はカカクコム、食べログ、クックパッドを成長させた。 商品やサービスを考える時、彼はいつも中学3年生の客だった。 彼が開発したサービスとは客が欲しいサービスだ。 経営側の論理や都合でサービスを構築したのではなく、客が欲しいサービスを見つけて、つくる。 彼の経営をひとことで表すとそういうことになる。

経営していても失敗はある。しかし、失敗したら、すぐに忘れる。そして、ユーザーファーストで事業を見つめ直して、成長を目指す。

  • エグジットを嫌う

穐田さんはとにかくエグジット(株式を売却して現金化すること)を嫌います。大嫌い。絶対反対。 とはいえ、ファンドなので儲けないといけないのではと問うと、『儲けなんて関係ない、もっといい会社になるのに何で売らなきゃいけないんだ』って言い返してくる。 アルチェをライブドアに売ったのも穐田さんとしては嫌で嫌で仕方がなかった。

くふうカンパニーにたどり着いたのは、会社を売るのが嫌だから。 自分がオーナーでいるのであれば、成長させて、ずっと会社を持っていられる。だからオーナーをやる。仕事をしたい仲間とずっと一緒にいることができる。ずっと仲間でいたいから自己資本でやっている。

創業者って利益よりも、どういうことを実現したいかという理念が先にある。理念を持って事業をスタートさせている。そういう人は考えていることが大きいし、複雑です。創業者は単純に利益を出す会社をつくりたいわけではない。

  • 課題解決こそ全て

穐田はアイシーピー時代、友人が結婚した時、ウェディングドレスの持ち込み料を 30 万円請求されたと聞いた時、憤慨した。 当時の彼は生活のなかで許せない現実にぶち当たることが多かった。 そんな時にインターネットを使って改善するサービスを考えた。 世の中の許せない現実を疑い、変えなくてはならないと心底から思った。 そして、現状を疑い、変えたから、今もベンチャー経営者として存在し続け、結果を残している。 「現状を疑う」言いかえれば改善することに情熱を傾けること。現状を疑い、改善するのが本物のベンチャー経営者だ。

  • ファーストリテイリング柳井氏のユーザーファーストの徹底

柳井正は「事業は夢」といったロマンチックなことは語らない。 事業は自己実現とも思っていない。 日記に目標を書いて、それに向けて頑張ろうなんて子どもっぽいこともやらない。 物欲も名誉欲もない。お客様のため、社員のため、ひいては社会のためにユニクロを成長させると決めている。 失敗しても、挑戦することをやめない。 どこまでも可能性を追求する経営をしている。 「店は客のためにあり 店員とともに栄え 店主とともに滅びる」(倉本長治 経営コンサルタント) 柳井の座右の銘はユーザーファーストの徹底、懸命に成長を目指すことを謳っている。

穐田氏の経営の原則

穐田が空白時代にその骨格をつくり、自らそれに従おうとしているルールがある。

1番目は、ユーザーの声をサービスにつなげる。彼の大原則だ。 たとえば新聞の電子版、オンラインマガジン、動画メディアにはプロが取材、制作した加工情報が載っている。 だが、穐田は加工情報よりもユーザーの声を直接、集めてきてサービスにつなげる。 口コミサイトと呼ばれるジャンルだ。そうしてユーザーの低いつぶやきを集めて、販売側とユーザーの情報格差をなくしていこうとしている。

2番目はユーザーのコミュニティを育てること。たとえば、紙の新聞、雑誌は販売部数を謳う。 100万部、200万部と主張する。そうして、ユーザーを「弊紙の読者だ」と規定して、コントロールできる相手のように思っている。

3番目はIT企業の経営者としては奇特な決断だ。彼は「ゲームはやらない」と決めた。子どもたちの貴重な時間とお金を奪うゲームビジネスはやらない。

4番目は、商品設計では完璧を目指すのではなく、無限を追求する。 インターネットメディアが得意とするのは完璧な情報をひとつ載せることではなく、限りなく多くの情報を掲載することだ。 優れたサービスとはひとつの答えを出すことではない。いくつもの答えを用意して、ユーザーに選んでもらう。システムは完璧を目指すが、サービスは無限にする。

5番目は組織づくりだ。組織は大きくしない。小回りの利く組織をいくつもつくる。インターネットビジネスでは中央集権型組織ではなく、分散型の生態系にして、そして、全体の意思は社長ではなく、ユーザーが決定する。

「サービスを提供している時、客がわからない言葉でサービスを説明しない」  経営者や従業員だけが知るテクニカルタームでユーザーに説明をするなとも彼は伝える。

「社員自らが使わないようなサービスは世に出さない」

一度大きく勝って、あとは負けないようにする

投資も経営も百戦百勝はない。一度でも勝つことができれば、あとはなるべく負けないようにする。負けたとしても損を少なくする。 勝てない投資はやらない。

波に乗ったのではなく、波を起こした

戦後のモータリゼーションは高度成長が本格化する1960年から始まったとされる。 だが、本格化したのはカローラとサニーが同時に発表された1966年からだ。 カローラ開発を指揮したトヨタの豊田英二(翌 67 年に社長就任)は『決断─私の履歴書』(日本経済新聞出版)でこう語っている。

「カローラはモータリゼーションの波に乗ったという見方もあるが、私はカローラでモータリゼーションを起こそうと思い、実際に起こしたと思っている。 トヨタはカローラのためにエンジン(上郷工場)と組立(高岡工場)の二つの工場を建設した。 うまくいったからこそ、今ごろのん気なことを言っていられるが、もし、モータリゼーションが起きていなければ、今ごろトヨタは過剰設備に悩まされていただろう」

交錯していたインターネット黎明期の起業家

GMO

当時、MSのテキスト広告を見たら、「インターキュー」が多かった。インターキューはインターネットの接続事業、プロバイダーである。現在のGMOインターネットグループの前身で、熊谷正寿が創業した会社だ。  穐田は熊谷の目のつけどころに感心した。 「あのスペースをまとめ買いしてコストを下げる熊谷さんはインターネットのことをよくわかっている」

サイバーエージェント

取次手数料を安くした方が勝ちというビジネスモデルが一般的になったら、サイバーエージェントは成長することができなくなる。 藤田はインターネットの近未来をちゃんとわかっていた。そこでサイバーエージェントはブログ事業、ゲーム事業、インターネットテレビへと進出していった。 また、MSの広告枠に目を付けたインターキューの熊谷はインターネットの本質をよくわかっていた。熊谷は他社が参入してくる前に新しいサービス事業に足がかりを設け、資金を注ぎ込んだ。 また、成長すると見通しをつけた会社をいち早く買収した。前述の村松竜が始めたネット決済システムの会社を買ったのも熊谷だ。その会社、GMOペイメントゲートウェイは今ではGMOグループを支える企業になっている。

オン・ザ・エッジ

穐田は「最高だな、この男は」と感じた。一緒にいた村上の胸中を推し量ることはできなかったが、「バカだバカだ」と連呼する堀江に強烈な爽快感を感じたのである。 何といっても堀江が言っていたことは、実は穐田自身が感じていたことそのままだった。 堀江は自分自身の成功よりも、世の中を変えることだけを考えていた。そして、日本社会の硬直化した現状を憎んでいた。世の中のシステムを革新することだけを穐田に話した。 だからといって、彼は瞳のなかに星が瞬くような青年ではなかった。「夢に向かって驀 している」とか「毎日、日記をつけて目標を管理している」といったような、わざとらしいことは言わない。 不愛想に「世の中のシステムを変えないとみんな幸せにならない」と健全な意見を述べた。 ただし、健全な意見をひとつ言うと、その後に、 10 倍の罵倒が控えていたけれど……。 堀江は「自分がしている仕事は幸福の追求だ。世の中のためになることが幸福だ」と最初から力説していた。

Last updated on Dec 27, 2023 00:00 JST
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